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戦後70年 ニッポンの肖像 -政治の模索-「第1回」保守・二大潮流の系譜

2015/07/22(水)<戦後70年 ニッポンの肖像 -政治の模索-「第1回」保守・二大潮流の系譜
【NHKスペシャル】 http://www.nhk.or.jp/special/index.html

www.nhk.or.jp


*敬称略しています。 また長文ゆえ誤字脱字が多いです。ご了承ください。


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┏┓NHKスペシャル 戦後70年 ニッポンの肖像 -政治の模索-
┃    第1回 <保守・二大潮流の系譜
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  http://www.nhk.or.jp/special/detail/2015/0718/


  70年前、焦土と化し、国民生活が困窮する中でスタートした戦後政治。

  時代とともに様々な意見が国民から寄せられてきた。

   1946年「食べることを第一に解決していただきたい。」

   1971年「団地みたいなのをドンドン作って入れていただきたい。」

   2011年「どんなやり方でもいいんでビジョンを明確に言って欲しい。」


  こうした声に政治はどう向き合ってきたのか。

  「物心両面の国力充実に努力を」「日米対等、日本の自主性を明らかに」
  「日本は永久に発展を続けなければ」「既得権にしがみつく自民党をぶっ壊す」
  「政権交代に力をお与えいただきたい」

  そして今政権を担う安倍晋三首相は
  「戦後以来の大改革を成し遂げようではありませんかー!」


  政治はこの先どこへ向かおうとしているのだろうか。


  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
  60年前、1955年に結党された自民党は、

  “豊かさ”の実現を優先するのか、それともGHQ主導で進められた体制から脱し
  国家としての“自立”の実現を優先するのか、

  吉田茂岸信介という二人の総理大臣に代表される二つの路線がせめぎ合いながら、
  政権を担い続け、戦後政治を形作っていった。


  安保改定の末、岸が退陣して以降、“豊かさ”路線が主流となったが、
  一方で、“自立”を目指す動きも脈々と党内に引き継がれていった。

  そして今、安倍政権は、アベノミクスを掲げて高い支持率を得る一方で、
  戦後の安全保障政策の転換を進め、「憲法改正」への意欲も示している。


  番組では、新たに発掘した史料や、関係者へのインタビューなどを通して、
  自民党内に流れ続ける“豊かさ”と“自立”という二つの路線の源流に遡り、
  戦後初期から1960年代にかけての日本政治の模索を見つめ直す。

 

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┣■吉田と岸の“二大潮流”【自民党】結党への軌跡  ※戦後の10年間


 ◆この戦後70年で33人の総理が政権を担った。

 ・国民の声に向き合いながら、それぞれの時代に突き付けられた課題に取り組み、
  時に激しい権力闘争を繰り広げてきた。


  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 ◆戦後初期から1950年代にかけての日本政治

  1945年 終戦

  1946年 日本国憲法公布

  1951年 サンフランシスコ講和条約
      日米安全保障条約

  1955年 【自民党】結党


  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
  神奈川県大磯町
 【旧吉田茂邸】
  かつてこの邸宅に吉田茂の政敵と言われる岸信介が訪れていた。
  1960年。笑顔で語らう二人の映像が残されている。
  しかしこの時、戦後政治の在り方を巡って熾烈なせめぎ合いが行われていた。


  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 【吉田内閣】
 ・戦後、占領期間の大半に総理大臣を務めたのは吉田茂
  焦土と化し、餓死者が出るほどの食糧難だった日本。

 ・1946年【吉田内閣】発足。

 ・吉田が最優先に考えたのは『経済』を立て直し、復興を実現することだった。

 ◇吉田茂 首相
  時局はまことに重大を極め、ことに食糧問題の速やかなる打開は
  我が国民・再生の鍵であり、一瞬の遷延すら許しません。   ※少し甲高い声


 ・戦前、外交官としてアメリカとの関係を重視し、開戦に反対した吉田。
  戦後はダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官による占領政策が続く中、
  国力の回復に務めた。

 ・1946年【日本国憲法】公布

 ◇昭和天皇
  本日【日本国憲法】を公布せしめた。  ※国会の壇上にて


 ・まず吉田が取り組んだのは「平和主義」などを基本理念とする新憲法を広く
  国民に浸透させることだった。

 ◇吉田茂 首相
  新憲法は、日本が世界に誇るべき、まことに立派な憲法であります。
  新憲法の精神を染み通らせ、徹底さするならば、
  必ずや我が国は「自由と平和とを愛する」幸福な国家として復興し、
  世界人類の進歩に大いに貢献するに至るであろう。


  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 ◆一方の岸信介は、吉田茂が政権の座にあった頃、
  【GHQ】によって東京の巣鴨プリズンに拘束されていた。

  「 KISHI         ※岸信介巣鴨プリズンの記録調書(?)
    NOBUSUKE        正面と横からの上半身写真が貼られている
    NO.436         太く黒々とした濃い髭を生やしている。
    SUGAMO PRISON
     26 MARCH 46 」


  1941年
 【東条内閣】発足
  戦時中の東條内閣の閣僚を務めた岸信介(商工大臣)。
  戦時経済を指導し、日米『開戦詔書』にも署名した。

 ・【GHQ】はその罪を問い、A級戦犯容疑者として岸を逮捕した。


 ・東京・巣鴨プリズンでの拘束の日々。岸は何を思っていたのか?

  <生前の岸信介へのインタビュー> ※所蔵:原彬久 政治学者
                    20回以上に渡って行った
                    大変貴重なカセットテープより
  ◇岸信介
   日本の主権ってぇものは、完全に制約されたというか、なかったというかだよ。
   マッカーサーが主権者として振る舞っておってね、その機嫌を取る奴ばっかりが
   そのぉ取り巻いてだな、そりゃ相当な憤激とね、反米的なっちゅうか、
   反マッカーサー的なね、気持ちが非常に強かったね。

   (憲法条文の)具体的なことは分からないけど何か押し付けている、なんてかな
   日本を如何に弱体化さすか、ねっ? 
   日本をして再びねぇ、このぉ立ち上がることの出来ないようにするのが
   占領政策の全てであったと。


 ◇原彬久 政治学者
  岸のその戦後政治の原点というか出発点というのは、まぁ言ってみればね
  「吉田的なるもの」を否定するというところから出発しているんですよ。

  日本の「対米従属構造」というかな、そういうものを固めたのが吉田茂だと
  いう風に岸においてはそういう風にまっ見えると。

  日本側のその「被占領政策」というものに対する批判というのは非常に強かった
  と思いますよね。


 ・収容から3年後
  1948年12月24日
  岸信介は不起訴となり釈放された。   ※釈放当日、煙草を一服する写真

  “国家の自立”を目指す岸の路線はここから動き出す。


 【山口県岩国市周東町
  【GHQ】による公職追放で一旦は故郷へ戻っていた岸信介

 【通化寺】
  この禅寺で開かれた地元の青年達の集まりで、自らの秘めた思いを語った。

 ◇吹田愰さん ※当時青年団の幹部
  それは強い意志でしたね。岸先生の日本を再建する意志っていうものは。
  吉田内閣ではもうダメだと。日本の再建はできないと。 ※とても力強い語気で語る


  <この集会で岸信介が記した漢詩

    鬱屈三年 意始伸
    還來今日萬象新    ※2行目以降は合っているか定かではありません
    誰言邦國妖雲蔽
    滿目滿耳總是春


  巣鴨での三年を経て、岸信介は再び政治の舞台に立つ決意を新たにしていた。


  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
  1951年
 【サンフランシスコ講和会議
  吉田茂首相は米サンフランシスコへ赴き『サンフランシスコ講和条約』を結び、
  日本の独立を回復。【GHQ】による占領に終止符を打った。

 ◇吉田茂 首相
  この平和条約は、復讐の条約ではなく、「和解」と「信頼」の文書であります。
  日本全権はこの公平寛大なる平和条約を欣然受諾致します。

  1951年9月8日
 ・同日に吉田茂首相は【GHQ】による占領から独立後もアメリカ軍の駐留を認める
  『日米安全保障条約』に調印した。


  吉田茂は「アメリカンの軍事力」に依存することで、
  「軽武装」のまま「経済復興」に集中できると考えた。

  1965年放送
  『わが外交を語る 吉田茂』より

   ◇吉田茂内閣総理大臣
    貿易を盛んにすること。あるいは外国のマーケットをもう少し開拓すると。
    私の時には金のかかる軍備はアメリカ持ちと。(笑) フッ、ハハハハハ。


  吉田茂『回想十年』より

   ◇吉田茂内閣総理大臣
    今はまず国に経済力をつけて、民生の安定を図ることが先決問題だ。
    ヒョロヒョロのやせ馬に過度の重荷を負わせると、馬自体が参ってしまう。


 ・しかしこの時が吉田政権の絶頂期であった。


  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 ◆一方の岸信介

 『追放解除 一万余名』
  独立回復の前後から「公職追放」が解除された戦前の指導者たちが
  次々と政界に復帰した。その中に岸信介の姿もあった。

 ・吉田茂が率いる【自由党】に所属した岸信介
  次第に吉田茂への対決姿勢を鮮明にしていく。

  「占領下で作られた憲法は改正しなければならない」と主張した。


  1980年放送
  『NHK特集 日米安保20年』より

   ◇岸信介内閣総理大臣
    サンフランシスコ(講和)条約ができて、日本は独立国になったけれども、
    実際に内容を見ると、占領時代のものが、随分その
    考え方の上に於いても制度の上に於いても残っていると。
    これをその一掃しなきゃいかんと。でなければ真の独立はできないと・・・


 ・ニュース映像より
  【自由党】の岸信介が中心となり、保守勢力の結集を誓いました。

  岸信介がまず取り組んだのは、自らの基盤作りだった。

  <1953年 衆院選後の議席数>

   【保守政党】        【革新政党
    自由党    199    社会党(左派)  72
    改進党     76    社会党(右派)  66
    自由党(分派) 35

            その他  18


  【社会党】が議席を伸ばす一方で、保守勢力は3党に分かれていた。
  岸信介は「憲法改正」の為に保守勢力の合同が不可欠だと考えた。

   ◇岸信介
    この時局を乗り切るに必要な政策を持っておるんですよ。
    「保守党ができなきゃいかん」というのが私共の信念ですよ。


 ・この岸信介らの動きについて
  吉田茂は自らを倒すことだけが目的だと批判した。

   ◇吉田茂内閣総理大臣
    政界の安定を目指して保守合同、新党という問題が浮上してきたのでありますが
    志を同じくする同志の結合ではなくって、むしろ政権争奪の争いであるかの如く
    見える・・・


 ・主導権を争う吉田茂岸信介
  この時『世論』は岸信介に“追い風”だった。

   <保守合同について>  ※【読売新聞】1954年1月

    1本になった方がよい  43%
    現在のままがよい    28%


 ・岸信介保守合同の意義を各地で訴えた。

   1954年8月
  『新党結成促進協議会』

   ◇岸信介
    国民の声、国民の要望というものは、最高でなければなりません。
    これをもし無視するものがありとするならば、
    それは民主主義の政治家の資格はないのであります。


 ・当時、吉田派の1年生議員だった後の総理大臣・宮澤喜一
  吉田茂の進めてきた路線が“自立”を目指す勢いに呑み込まれていくのを
  目の当たりにしていた。

  1995年の映像より
 ◇宮澤喜一内閣総理大臣
  「日本の栄光っていうのを取り戻さなければならんじゃないか」っていうのが
  岸さんの基本的なお立場で、そういう意味では憲法もアメリカ占領下に出来たもの
  であるから、やり直さなければならんと。

  それに対して、吉田さんを始めとしたと言ってもいいんでしょうね。
  「戦後の日本というものを肯定して育ってきた」政治家と、
  「追放解除を受けた」政治家との間には、やっぱりその考え方に差があります。

  その戦後派というのはそういう形で批判されて「憲法改正」という動きが強くなって
  きた。


 ・吉田茂は延べ7年に渡った政権の座を追われた。

  その翌年1955年
 『自由民主党 結成大会』
  岸信介らが主導した保守合同が実現。
  「自主憲法の制定」を党の理念に掲げる【自由民主党】が誕生した。 ※万歳三唱

 

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┣■スタジオにて


 Q.“豊かさ”目指す吉田と“自立”を目指す岸
   この路線のせめぎ合いをどのようにご覧になりますか?

 A.
  ◇田原総一郎(81) ジャーナリスト
   とにかく日本は貧乏で何にも無いんだから『経済』。経済を豊かにする
   これに全力を挙げると。でその「自立」とかなんとか言うけれど、そんなのは
   全くリアリティーが無いんだと。これが“吉田路線”だと。なるべく安全保障とか
   そういうものは安くあげると。アメリカに頼って。

  ◇三宅民夫 MC
   「金の掛かるのはアメリカに持ち」だって(映像の中でも)話してましたね。(笑)


  ◇田原総一郎(81) ジャーナリスト
   岸さんは、本音では「あの戦争は間違ってない」と思ってるんですよ。
   で、もう巣鴨で自分達のことは全部罪は(?)通したと。だからこれから政治運動を
   やるんだと。こうなるんですね。


  ◇三宅民夫 MC
   この二人の違いを御厨さんはどうご覧になりますか?

  ◇御厨貴(64) 東京大学名誉教授
   ハイ。吉田という人はとにかくそのぉ元々が外交官の時代からですね、戦前の。
   間違いなく親米英派なんですね。で、戦中はですからむしろ親米英派ということで
   これ大変な迫害をされるわけです。

   一方の岸さんはまさにエー、トントン拍子でそれこそ統制経済というものをやると
   いうことで、まぁ彼は満州にも行きましたし、戻ってからも統制もやりました。
   だからまさにその当時の政治の主流であって、それが戦後が吉田さんと岸さんが
   立場逆転。でー、岸さんの方はとにかく巣鴨プリズンに入っているわけですから
   先ほどのVTRにもありましたけれども、いわゆるまぁパージ(公職追放)された
   方達が一斉に戻ってくるわけですね。パージの解除ということで。 まっ彼らは
   やはり岸さんと、まっある程度同じように戦前の社会を目指す。
   つまり「戦後は行き過ぎたよね」って感覚で『吉田・親米路線』に対しては
   本能的に“嫌”なんですね。


  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 Q.二人の違いに『日本国憲法』の捉え方もあるかと思うんですけれど
   その点はどうでしょうか?

 A.
  ◇田原総一郎(81) ジャーナリスト
   当然だから「憲法改正」ですよ。意志決定を持つ。(岸さんがですね。)
   アレは【GHQ】が押し付けた憲法だと。だから少なくとも日本人の手で
   新しい憲法を作るべきだというのが岸さんですね。


  ◇御厨貴(64) 東京大学名誉教授
   吉田の場合はもうとにかく軍は元々“嫌”ですからね。彼あーいう軍が。(苦笑)
   アメリカに要は皆お任せしましょう。これは“思いっきり”はいいんですよ。
   やっぱりね、吉田がよく言っていた「負けっぷりを良くする」っていう点から
   言うと、これは完全に負けっぷりを良くしてね、アメリカに全部「どうぞ」って
   感じなんですよね。

   で一方の岸の方は「とんでもない」と。これからいよいよ政界に俺がもう一遍
   出て行く時には「コレを変えなきゃいけない」という形でそれは信念に近かった
   と思いますね。これは。

 

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┣■安保改定を巡る 岸と吉田のせめぎ合い


 ◆自民党結党を進めた岸信介。その2年後に【岸内閣】を発足させた。
  “自立”路線を推し進めようと課題に取り組むが、やがて壁にぶつかっていく・・・

  1955年 【自民党】結党

  1957年 【岸内閣】発足

  1960年 安保条約改定


  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 ◆政界復帰から僅か4年で総理大臣に就任した岸信介
  最優先に取り組んだのは『日米安全保障条約』の改定だった。

  1980年放送
  『NHK特集 日米安保20年』より

   ◇岸信介内閣総理大臣
    吉田さんが『日米安保条約』を作られたわけですがね、
    これはねぇ連合軍に代わって米軍がですよ、
    米国が日本を占領している状態なんですよ。
    こんな状態をね、続けていくわけにはいかないと。


 ・それまでの『日米安保条約』は、アメリカに日本の防衛義務が無いなど
  岸信介にとっては“不平等条約”そのものだった。

  1957年6月
 『岸首相訪米』
  岸はアメリカ側と交渉を重ね、条約を改定することについて
  原則的な合意を取り付けた。

   1957年6月20日
  『アメリカ議会での演説』より

   ◇岸信介 内閣総理大臣
    日米関係の新時代への扉が開かれるものと信じます。

    ※国際共産主義の脅威を唱え、翌日の記者会見では
     「日本は絶対に共産主義中立主義に走らない」と述べたという。


  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 ◆順風満帆に見えた岸信介
  しかし思わぬところからほろこびが見え始める。

  訪米翌年の
  1958年
 『警察官職務執行法 改正案』
  安保反対運動の取り締まりを見据え、警察官の権限を強化するものだった。


 ・当時、復興は進んだものの、人々にはまだ戦争の生々しい記憶が残っていた。

 【週刊明星】
  当時の雑誌には『デートも邪魔する警職法!』と題し
  「またコワくなる警察官」「恋人の前で手錠」などと特集が組まれ、
  戦前の『治安維持法』治安国家を復活させるものだと反発が広がっていった。


 ・こうした世論を受け【自民党】内からも反対論が続出。
  法案は廃案に追い込まれた。

 ・反発の声は『日米安全保障条約』の改定反対にも波及。
  【岸内閣】の支持率は26%台に下落。(1959年2月【朝日新聞】)

 ・更に岸信介の政権地盤を大きく揺るがす事件が勃発。
  派閥の領袖として閣僚を務めていた三木武夫経済企画庁長官・当時)や
  池田勇人国務大臣・当時)らが辞任。この池田勇人の背後には吉田茂の存在が
  あったという。

  池田勇人を自らの後継者として育ててきた吉田茂
  当時、池田に宛てた手紙でも岸信介の『安保改定』を厳しく批判している。

   <吉田茂池田勇人宛書簡 1958年11月6日付>

   「自主とか双務とか陳腐なる議論は、我らの賛成できぬところ。」


 ・ところが閣僚辞任から半年後、池田勇人は再び入閣。
  一転して岸信介への協力姿勢を打ち出した。

  そこには『安保改定』の後に自らの路線に引き戻そうとする
  吉田茂の目論見があったという。

  ◇三木武夫内閣総理大臣
   池田を次期首班にと考えて吉田が動いた。
   吉田は岸が『安保改定』を片付けた後のことも考えた上で、
   池田を入閣させたと思う。
   この時、岸・吉田間に「密約」ができたと思う。


 ◇原彬久 政治学者
  岸が「池田の力を借りたい」というその願望が強ければ強いほど、
  吉田にとってみれば「池田後継総裁」というものを岸に提示しやすいわけですから
  お互いの利益がそこで合致するわけですよね。
  「密約」というとなんとなくおどろおどろしいけれども、しかしそういう場面は
  あったんじゃないかなと、その蓋然性は高いでしょうね。頷く


  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
  1960年5月
 【吉田茂邸】  ※岸信介が訪問した映像が紹介される
  吉田茂の協力を取り付けた岸信介
  この10日余り後に『安保改定』に向けた動きを加速させていく。

  1960年5月19日
 『安保改定』の国会承認を得るため会期を延長し、衆議院での単独採決に踏み切った。


 ・ところがこの採決がくすぶっていた『安保改定』反対運動に火を付けた。

 ◇岩井章 事務局長 労働団体【総評】
  しめた!これはイケる。
  “民主主義の危機”を国民に訴える絶好機となった。


 ・この日を境に国会を取り巻く【デモ】の規模は一気に拡大する。
                                不気味な
   「安保、反対!」「安保、反対!」  ※ムカデ、ヘビのようなデモ隊列の動き

   < 国民会議の下に起ち上がれ!
        岸内閣打倒!
      中大 自治委員有志    >


  反対運動は全国各地に広がり、1週間後に参加者は54万人に膨れ上がった。

 ◇伊藤茂さん 事務局次長 【安保条約改定阻止国民会議】 ※当時
  採決の強行で運動の質が様変わりしたという。

  「縦型の動員」労働組合を中心とした縦型の動員という形から
  全く国民的な「横の社会構造」に運動が変わってくる。

  【岸内閣】というのは『警職法』『安保』含めて非常に強権的なというか
  そういう性格だなと。こりゃまずいと。いろんな不満とか不安とか、
  あの時から爆発をしたと。

   ※猛々しい学生ばかりでなく、割烹着を着た主婦やその子供連れなど
    笑顔を見せながら絶えず蛇行して抗議運動をしていることが映像から
    見て取れる。そこには罵声というかお祭り的な雰囲気も感じられた。


 ・これに対して岸信介は「反対の声はあくまで一部」だと強気な姿勢を示した。

 ◇岸信介 内閣総理大臣
  国会の周りはデモでナニしているけれども、後楽園(球場)ではだな数万の人が
  入ってだ野球を楽しんでいるし、ね! 銀座通りにはね、若い女の子や男がね
  手を繋いで一緒に歩いていると、ね! 従ってそのぉそれが大衆であってね(笑)
  いわゆるね(笑)「声なき声」のそのなんだ・・・

  大衆ーにぃだな、そりゃ追随し大衆に引きずり回される政治が民主政治じゃなしにだ
  民衆のぉ二、三歩前に立ってだ!民衆を率いて民衆と共に歩むのが本当の民主政治の
  リーダーシップだ。


 『虐殺抗議』
  しかしデモに参加した女子学生が死亡したことで、反対運動は更に激化した。

  1960年6月19日午前0時
 『新安保条約 自然承認』
  岸信介は『安保改定』にこぎつけたものの、政権は維持することは出来なかった。

  1960年6月23日
 ◇岸信介 内閣総理大臣
  本日、総理大臣を辞する、決意を、表明をいたします。


 ・岸信介が退陣表明をしたこの日、一通の手紙が届く。

 【山口県田布施町
  岸信介の地元に吉田茂から送られた一通の手紙が残っていた。

  そこには後継の総理大臣について念押しする吉田茂の言葉が綴られていた。

   「かねて御話の池田君。相当の決意これあるやにも存ぜられ候。
    邦家のため急速に御取り運び下されたく、切願の至りに候。 」


 ・当時、池田勇人の他に岸信介の弟である佐藤栄作の名前が後継候補として
  浮上していた。

 【神奈川県・箱根町
 ・こうした中、吉田茂岸信介は人里離れたホテルの貴賓室で秘密裏に会談を行った。

 ◇清原淳平さん ※会談の仲介者の秘書として同行
  あの時の(岸首相の)顔はね、顔つきはやっぱり厳しいお顔でしたよ。


  まず仲介者は岸の後継に佐藤栄作を推した。すると吉田茂はこう切り返したという。

  ◇吉田茂内閣総理大臣
   姓は違うが佐藤君が岸さんと兄弟なのは周知に事実。
   少し間を開けないと。ここは、池田勇人で行こう。


  押し黙るように岸信介は同意したという。

 ◇清原淳平さん ※会談の仲介者の秘書として同行
  私の方も呆気に取られた状態で(岸さんの)そりゃ心情的には佐藤栄作さんは
  実の弟だし、自分が念願としてきたね、「憲法改正」の方も引き継いでくれる
  んじゃないかと思っただろうと私の推測だけど、(岸さんは)やっぱり大局的見地
  から決断されたんだなーと。吉田さんのご意見に従ったんだなと思いますね。


  1960年7月14日
 『自民党総裁選』
  岸は池田を支持。
  後継の総理大臣に選ばれたのは“吉田路線”を継承する池田勇人だった。

 

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┣■スタジオにて

 Q.田原さんは(当時)デモに参加していたんですよね?

 A.
  ◇田原総一郎(81) ジャーナリスト
   毎日。はい。で、「安保反対、岸は辞めろー」ってね、実はこれ大事な
   問題だけど、僕はデモに参加して「安保反対、岸は辞めろ」と言いながら
   『吉田安保』と『岸安保』の違いなんか読んだこともないし知らなかった。
   で、僕だけじゃない。ほとんどの人間が知らなかった。

   だからぁ『安保改定』は要するに「アメリカの戦争に日本が巻き込まれる」
   「日本を巻き込むための安保改定」だと思い込んでいる。だから反対ッ!
   実はそうじゃない。

   『吉田安保』ってのはね、酷いんで、これは“奴隷安保”って言うんですが、
   とにかく「アメリカが好きな所・思いのまま、どこにでも勝手に基地が造れる」
   つまり“占領体制”の延長ですね。

   で、岸が「事前の相談。アメリカが基地を造るためには事前に日本と相談を
   しなければならない。しかも日本を守る義務がある。で、安保は10年」だと
   つまり明らかに改善したんですね。    ◇三宅民夫 MC
                        良くしたと?

   いいですか。岸さんは本当にやりたいのは「憲法改正」だった。
   それで彼はこの『安保改正』は国民に対するサービスで、
   『安保改正』で国民の支持が上がり、そこで選挙をやって「憲法改正」。

   それでだからね、あんなに大騒ぎになるとは岸自身が全く想像もしてなかった。


  ◇御厨貴(64) 東京大学名誉教授
   だからやっぱりね、多くの国民の中にあったのは「アンチ岸」であって
   その「反岸」というのはもっとすると「反戦前」なんですよ。

   これ一貫してそうですけれど、岸さんっていうのはやっぱりその、
   いくら「国民、国民」とあそこで演説してますけれど「国民の何たるか」と
   そしてその「国民の何たるかとの間を繋いでいるメディア」。このメディアに
   対してね、全く一顧だにしない。凄くね、メディアにもあの強硬路線をそのまま
   出すわけですよ。

  ◇三宅民夫 MC
   先ほどのVTRの中で「大衆に追随して引きずり回されるんじゃなくて、
   大衆の二、三歩前に行くのが政治家だ」と言ってましたよねぇ。


  ◇御厨貴(64) 東京大学名誉教授
   ただそれは岸流の言い方であって、要するに
   「自分達の考えている考え方に付いてくるような国民でなければいけない」
   わけなんですよ。“岸の民主主義”はですね、基本的にはですね、エー
   “彼に付いてくる民主主義”なんですよ。  ◇田原総一郎(81) ジャーナリスト
                         そうだよね。うん。


  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 Q.『安保改定』がこういうことになったことの意味というのは
   その後の政治に大きな影響を与えたか?


  ◇田原総一郎(81) ジャーナリスト
   大きな影響!だって未だに「憲法改正」が行われていないんだから。

  ◇御厨貴(64) 東京大学名誉教授
   だから圧倒的にその2つがそれぞれせめぎ合っていたのが、結局
   「憲法改正路線」っていうのはここで事実上否定されてしまったと。
   まぁですから1960年っていうは、この2つの潮流のまさに“分水嶺
   だったんですね。

 

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┣■高度成長とその後“二大潮流” は


 ◆岸信介の退陣後、吉田茂の流れを汲む“豊かさ”路線が推し進められ
  日本は『高度経済成長』に時代に入っていく。


  1960年 岸首相辞任
      所得倍増計画

  1964年 東京オリンピック

  1972年 沖縄返還


  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 ◇池田勇人 内閣総理大臣
  結局、経済の拡大発展です。(所得を)10年経ったら2倍以上。


 ・「経済成長」を最優先に掲げた池田勇人

  1962年放送
 『ラジオ こどもの日特集
  総理を囲んで
  ききたいこと話したいこと』

  ◇男の子               ◇池田勇人 内閣総理大臣
   池田さんはね、            ウン。
   今の日本のことについてね、
   どういう大きな夢を持っているかって
   ことなの。              大変な夢を持っているんです。
                      国内を良くして、あなた方が
                      中学校の人は子供の時になかなか
                      お菓子ひとつ食えなかったのが
                      食べられるようになったと。
                      この度合いで進んで行こうと。
                      これが私の夢なんです。

                      あんたらの夢もそうじゃねぇの?


  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 ◆池田勇人の後に総理大臣になったのは佐藤栄作だった。

 ・岸信介の弟の佐藤栄作は、戦後最長の7年8カ月に渡って政権を担い、
  『沖縄返還』などを実現。

 ・一方で「憲法改正」には“消極的”だった。


  1968年2月
 『衆院予算委』
 ◇佐藤栄作 内閣総理大臣
  憲法自身、現時点に於いては只今改正する考えはない。
  この憲法を忠実に守らなきゃならない。これは当然である! ※力強い語気


  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 ◆こうした中、アメリカの雑誌に

  「憲法改正」に取り組まない【自民党】を批判した論文が発表された。
  執筆したのは岸信介だった。


  「 『憲法改正』は日本が真に戦後から脱却し、
    日本人としての自信と誇りを持つのに必要だ。

    テレビが普及し、食糧が豊富になり、所得が高まるだけでは
    決して『自立』とは言えない。              」

 

 ・この時期、岸信介はある思いを抱くようになっていた。

 ◇岸信介内閣総理大臣
  余りにも池田及びその私の弟が
  「憲法はもはや定着しつつあるからね、憲法改正やらんやらん」ちゅうのは
  非常ーに後退したからね。もう一遍くらい俺が総理になってだ、憲法改正をだな
  政府としてやるんだと! まあ密かにそう思ったことは随分ありますよ。


 ◇吹田愰さん ※この当時は講演会の幹部
  かつて地元の寺【通化寺】で、岸信介の決意に触れた。

  岸先生は、私どもに対して
  「まだ、俺が総理になってやるべきことがある」と
  「政治家というのは“完全燃焼”しなきゃならん」と
  「完全燃焼しないと“未練”が残る」と。      ※少し涙目で語った


  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
  1968年
 ・日本のGNPが世界第2位となった。
  国の調査では9割の国民が「中流」意識を持つようになっていた。

 ・【佐藤政権】後の総理大臣たちも「憲法改正」を提議することはなかった。


 ・こうした中「憲法改正」を訴え続けてきた中曽根康弘が有力な総理大臣候補として
  台頭した。

  80歳を超えても「憲法改正」の運動を続けていた岸信介
  中曽根泰弘に期待を寄せた。

   1981年
  『岸信介の回想』より

   今では中曽根君ぐらいしかいないから。
   彼に頼んでやってもらおうかと考えている。


   1981年8月28日付
  『中曽根の岸宛書簡』より

   「憲法改正につき中曽根君にやってもらう」の一節は
   電撃に触れた感がありました。

   これ正に先生の御初心であり、小生の初心であります。


  1982年11月27日
 【中曽根内閣】発足
  しかし中曽根泰弘は総理大臣に就任してから僅か10日余りで
  「憲法改正」を封印した。

 ◇中曽根康弘 内閣総理大臣
  現行憲法の民主主義、平和主義、あるいは基本的人権の尊重、国際協調主義等は
  優れた理念であって「憲法改正」を政治日程に載せる考えは目下のところありません


 ・その理由について後に本人はこう語っている。

 ◇中曽根康弘内閣総理大臣
  当時はまだ「憲法改正論」を総理大臣として正式に提議するという段階には
  至らなかったと。『高度経済成長』の時代の余波を受けていましたからね。

  「憲法改正論」を強く持っておりましたけどね。“政界全体の空気”というものを
  支配する。これでもって第一義的な問題として取り上げていくという、
  そういう方向からは、少し遠ざかっていったと。 ※口調明確も老いは隠せず。。。


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┣■スタジオにて

  ◇三宅民夫 MC
   経済成長の中、“豊かさ”路線が“自立”路線を覆い尽くした感がありますねー。


 Q.田原さんは当時どういった“豊かさ”の実感をお持ちですか?

 A.
  ◇田原総一郎(81) ジャーナリスト
   私はね、結婚したのが1960年。池田内閣が発足した時なんですよ。
   それで結婚した時は4畳半のアパートを借りて、トイレも風呂もなかった。
   まず最初に買ったのが共働きですから、小さな電気冷蔵庫。二人いますからね。
   それから暫く経って女房が電気掃除機を買った。で、暫く経って電気洗濯機。
   これがね、我が家「三種の神器」。つまりね『高度成長』っていうのはね、
   “豊か”になっていくのが実際に“実感できた”んですね。


  ◇御厨貴(64) 東京大学名誉教授
   今、田原さんが仰ったように、しかもそれが目に見えるように自分の家の中が
   充実していくわけですから、これでいや、自主憲法を制定するって話は多分、
   全く国民の話題には乗りません。

   しかもその「戦前」ってのは本当に日本は戦中なんか特に「食えなかった」んです
   それがようやくその「食える」日本になったわけですね。これを大事にしようと
   いう保守的な感情もあるわけですね。


  ◇三宅民夫 MC
   いわゆる“自立”を求めていく岸のような路線というのはこの時はどういう風に?

  ◇御厨貴(64) 東京大学名誉教授
   だから完全に“水面下”だと思いますね。だから逆に言うと、そのVTRの中にも
   ありましたけれども岸さんが「もう一度総理になりたい」これが大きいんですよ。
   だから総理大臣に本当に戻れるかどうかは別として、そのぐらいの気持ちで彼は
   ズーッと孤軍奮闘していくわけですね。


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  ◇三宅民夫 MC
   岸が期待を掛けたのは中曽根さんだったそうですが、、、
   そのぉ田原さん中曽根さんにもインタビューをして来られましたよね。(笑)

  ◇田原総一郎(81) ジャーナリスト
   ハイ。何度も。「あんたは“風見鶏”と言われてるぞ」と言ったら、
   中曽根さん「だからいいじゃないか」。風も見ないでね、行ったら危なくて
   しょうがない。アッチ見コッチ見。「あんた“日和見”だね」って言ったら
   「“日和見”だからいいんだ」と。日和見しないで船に乗ったらね、台風に
   やられてしまうと。自分は風見鶏で日和見で、だからこそ安全なんだと。
   開き直ったんですね。

   だから岸さんに「憲法改正しろ」と言われても、やっぱり“風見鶏”だから
   「しない!」って。(苦笑)   ◇御厨貴(64) 東京大学名誉教授
                   しないんですね。(苦笑)


  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
  ◇三宅民夫 MC
   今日は二つの流れを見てきたわけですけれど、
   【日本政治】にどういう影響をこれは与えていくことになるのか。
   また私たちはこの戦後のここまでの歴史で何を汲み取れると思いますか?


  ◇田原総一郎(81) ジャーナリスト
   戦後ね、全く「ゼロ状態」になった日本が、世界の「経済大国」に成れたって
   いうのは、これはやっぱり「吉田路線」じゃないですか。

   逆に言うとね、
   戦争の知っている世代は「戦争は嫌だ」と。とにかく戦争は嫌だと。だからね
   「憲法改正反対」なんですね。

   ところが逆に戦争を知らない若い世代がドンドン出てきた。
   若い世代に「憲法改正」「日本の自立」なんて言い出す人間が
   だいぶ出てきてますね。


  ◇御厨貴(64) 東京大学名誉教授
   間違いなく“豊かさ”路線というのが最終的にこの国を全部覆ったわけですけれど
   その中でやっぱりしかし岸さんがズーッと考えていたこと
   「憲法改正」をどうするか。占領時代っていうのを見直さなくてはいけないって
   いう脈々として一つの地下水脈っていうのは伝わっていくわけ。
   これは完全に絶たれたわけではない。そこがやっぱり一つのポイントであって、
   “豊かさ”路線があって、そこに“自主憲法を作ろう”っていうもう一つの路線が
   そこに隠れてあってですね、共にそのどっちが顕在化しているかは別ですよ。
   だけどそれが進んでいったってことは間違いない。


  ◇三宅民夫 MC
   “政治の根本”をね、考えされられた気がしました。

   さて明日はこの後の時代、“豊かさ”路線を主導した田中角栄とそれ以降の時代を
   見て参ります。

 

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┗■放送を終えて  ※HPよりそのまま転載
  http://www.nhk.or.jp/special/detail/2015/0718/


 「戦後政治とは何だったのか」。番組では吉田茂岸信介という2人の政治家を
 通じて、保守勢力の中に流れる二大潮流を見つめました。

 戦後政治の潮流のバックボーンにあるものを探り、今の政治状況を考える手がかりを
 見つけたい。これが制作期間を通じて、私が持ち続けていた問題意識でした。


 取材で実感したのは、政策決定のプロセスに、権力闘争や人間関係が相まって
 進んでいく政治のダイナミズムと奥深さでした。

 吉田と岸という2人の政治家の間にあった激しいせめぎ合い。それは政策や国家観の
 違いだけでなく、政権維持の執念やお互いへの対抗意識などが、複雑に絡み合った
 ものでした。


 番組では政策面だけでなく、そうした2人の「人間臭さ」も描きたいと考えました。
 両者の関係や思想が、端的に表れている発言や物証を求めて、膨大な史料と格闘
 しました。

 「細部に神は宿る」という言葉がありますが、抽象論ではなく、具体的な発言や
 書簡の言葉の中から、2人の考えの本質を伝えることを意識しました。

 それが記された史料や関係者の証言に出会った時、何度もぞくぞくするような興奮を
 覚えました。


 「歴史とは現在と過去との対話である」という歴史学者の言葉があります。

 現在の時代から過去を新たな視点で捉え直し、将来を展望していく。
 このことの大切さを実感した番組でした。


 今後も歴史的な視点を持ちつつ、現在の政治状況を取材していきたいと思います。

 (報道局 政経・国際番組部 ディレクター 安井浩一郎)

 

◇感想‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

┣・思いっきり文字おこし作業をしてしまった。1000行近い長文だけれど
  一気に読まれた方も多いのではないでしょうか? 僅か50分足らずの番組
  でしたが、大変良質だったと思います。そろそろ訴えられそうで怖い・・・


┣・私は恥ずかしながら思いっきり勘違いをしていました。1960年『安保改正』
  反対する大規模なデモは『日米安全保障条約』そのものというよりも寧ろ
  戦前の強硬姿勢を巻き戻す政権そのものに向けられていたことを。これは
  教科書読んだだけでは皆さん勘違いしているのではないでしょうか?解説
  悪すぎますよ! 学校の教師自体、よく理解していないのでは

┣・しかし皮肉な話です。“奴隷”扱いでも“物欲”を選択していたわけです
  からね。また付き従う側からして見れば、別族である米国の方が同族でも
  ムカつく態度の者に従うよりは全然マシに思えたんでしょうね。3代経ても
  それは未だに変わり映えしていないようです。(笑)

┗・ちょっと読むと愛国心を煽る“自立”路線ですけれども、戦前中の政権に
  関わっていた者達を探ると、そんなに立派なものでもなさそうなのよねー。
  金に不自由しなくなると欲するのは権力であるのは時を経ても変わらない
  ようだ。己の考えに付き従う、可愛い従者が欲しいらしい。そのためには
  裏で悪いことをしていても構わない。だって自分に従わない・従わなくて
  構わない人間たちなのだから???“豊かさ”路線の風見鶏姿勢も確かに
  情けなさ過ぎるけどね。(苦笑) ロンはヤスにプールで水浴びさせてあげた。(爆)

  自分で書いていて辛辣すぎて嫌になってきた。この辺で切り上げます。