2015/05/13(水)<戦後70年 いま語り残す“Nisei”たちの戦争 ~日系人部隊の記録~ >
【クローズアップ現代】 http://www.nhk.or.jp/gendai/
*敬称略しています。 また長文ゆえ誤字脱字が多いです。ご了承ください。
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┏┓ <戦後70年 いま語り残す“Nisei”たちの戦争 ~日系人部隊の記録~ >
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アメリカで日系アメリカ人達は、社会的にも経済的にも成功したマイノリティー
と称されることが多い人達だが、戦争という個人ではどうすることもできない時代
日本からアメリカに移住した日本人、そしてその親の元で生まれた日系二世の人々は
戦争に翻弄された。
日系人の方々が戦争中に体験した、困難な日々を象徴する“有刺鉄線”。
戦争が始まると「アメリカへの忠誠心」を疑われた日本人や日系人は、
有刺鉄線が張り巡らされた強制収容所へ入ることを命ぜられる。
“自由“も“尊厳”も奪われた収容所での生活。著しい「差別」を受けながら
日本人を親に持ち、アメリカで生まれ・アメリカ国籍を持つ日系二世の若者達の多くが
収容所から『ヨーロッパ戦線』や『太平洋戦線』へと赴いていった。
親や兄弟などを収容所に残して戦地に行った若者達は“どんな気持ちで戦ったのか”。
そのことがその後、アメリカに於ける日系人の状況に“どんな影響をもたらしたのか”
日系人部隊『陸軍第442歩兵連隊』。 ※集合写真をみるとザッと200人程。
アメリカの陸軍史上でも最も多くの勲章を受けている。
最近でもオバマ政権から最高の勲章を授与されている。
この『442連隊』は、アメリカ陸軍部隊の中でも亡くなった兵士・怪我をした兵士の
割合がとりわけ高い、過酷な戦闘地域に投入されたことでも知られている。
1988年
アメリカ政府は約30年も前に、強制収容をしたことを謝罪し、
そして補償することを決めている。
しかし国が過ちを認めた後も、激しい戦地を戦った元兵士達の多くが“心の内”を語る
ことはなかった。
戦後70年が経ち、元兵士達のほとんどが90歳を超えている。
ようやく重い口を開き始めた元兵士達の言葉に耳を傾ける・・・
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┣■激動の歴史に翻弄され続けた“日系アメリカ人”
今月2015年5月3日
【ドイツ】
ある強制収容所の解放から70年を祝う式典が行われた。
解放に貢献したのは、アメリカから理不尽な待遇を受けていた
日系二世の兵士達だった。
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◆『太平洋戦争』によって「敵性外国人」として扱われるようになった日系アメリカ人
・そうした境遇にも関わらず、多くの日系二世が軍に入隊し、「アメリカへの忠誠」を
示そうとした。
・戦場は常に“最前線”。
負傷しても、回復するとすぐに危険な地帯に送られ続けた。
・戦後、二世達の多くはアメリカ社会に溶け込むことを優先し、
自分たちの体験を家族にも語って来なかった。
◇元兵士
70年間も苦しんできました。今もよく眠れません。(号泣)
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◆激動の歴史に翻弄され続けた日系アメリカ人
・戦後70年。「今、語り残したいことは何か」。
二世達が証言する。
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┣■なぜ 何のために戦う“日系二世の戦争”
今年2015年2月
【アメリカ・サンフランシスコ】
第2次大戦中『ヨーロッパ戦線』で戦った日系二世の元兵士達が集まった。
◇元兵士
こうやって外に出かけられるようで、うれしいよ。
◇元兵士 ※歩行補助器を使用
本当にかろうじて出てきたよ。 ※会話は『英語』です。
「あなたは21歳でアメリカ陸軍に参加しました。」
・【ナチス・ドイツ】からのフランス解放に貢献した功績を称え、
【フランス政府】から勲章が贈られた。
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◆彼らが『ヨーロッパ戦線』の激戦地に送られることになったのは、
74年前の出来事がきっかけだった。
1941年12月
『真珠湾攻撃』※アメリカ・ハワイ
日本が行った真珠湾攻撃。
・【アメリカ政府】は日系アメリカ人が「日本のスパイ」になることを恐れ、
「敵性外国人」に指定。
<日本人・日系人に対する撤去命令>
※機械翻訳(英語カラキシ×なので)
WESTERN DEFENSE COMMAND AND FOURTH ARMY :西洋の防御命令と第4の軍
WARTIME CIVIL CONTROL ADMINISTRATION :戦時文民統制管理
Presidio of San Francisco, California :カリフォルニア州サンフランシスコ市
:の要塞
April 1, 1942 :1942年4月1日
INSTRUCTIONS :指示
TO ALL PERSONS OF :の全ての人に
JAPANESE :日本人
ANCESTRY :祖先
Living in the Following Area: :以下の地域に住んでいること:
・アメリカ西海岸で暮らしていた人々を『強制収容所』に送った。
その数「約12万人」。
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◆日系アメリカ人は「仕事」も「財産」も失い、
“不毛の地”で自由を奪われることになった。 ※ほぼ砂地。防風林にも満たない。
サンフランシスコの式典に参加した
◇マサオ・カドタさん(91)
18歳の時『強制収容所』に送られた。
◇ホシコ・カドタさん 妻
Hallo, How are you? 入れ歯が入ってないわ。(笑)
・カドタさんが自分の経験を語り始めたのはつい最近のこと。
収容所で受けた「差別的な扱い」は忘れることができないと言う。
◇マサオ・カドタさん(91)
監視塔からはいつも見張られていました。
鉄条網で出来たフェンスには近寄ることもできず、
私達は何もすることができませんでした。
まるで囚人のようだったのです。
・それから約1年半、戦局が激化すると
【アメリカ政府】は日系人に「兵役への参加」を求めてきた。
カドタさんは大いに矛盾を感じながらも、従うことにした。
◇マサオ・カドタさん(91)
収容所に入れられた自分が「なぜ戦わなければならないのか?」そう思いました。
でも私達は「敵性外国人」ではなく「アメリカ国民」だと認められたかったのです
・カドタさんが加わったのは、自分と同じような境遇の日系人を集めて作られた部隊、
『陸軍第442歩兵連隊』だった。
この連隊は1943年、イタリアに上陸し【ドイツ軍】を破りながら北上。
その後フランスに転戦し、戦争末期にドイツ本国に進軍した。
<アメリカ軍が撮影した『442連隊』の映像>
彼らの任務は、ほかの部隊と比べて過酷なものだった。
常に最前線で戦い、突破口を開く役割を負わされていた。
◇マサオ・カドタさん(91)
敵はいつも山の上にいました。
攻撃するには斜面をはい上がらなければなりません。
最前列で撃たれなかったら“もうけもの”という状況でした。
・『442連隊』に従軍した将兵の総数は「1万4,000人」。
その内、終戦までに4,000人以上が戦死したり負傷したりした。
他の部隊の「約3倍の死傷率」だった。
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Q.なぜ日系人部隊の犠牲はそんなにも大きかったのか。
A.
・『ヨーロッパ戦線』に詳しい専門家は、当時の【アメリカ軍】が
日系人部隊を“消耗品”と捉えていたと考えている。
◇エリック・ソウル 軍事史家
彼らが死んでも、それは最悪の事態ではありませんでした。
“捨て石”だと捉えられていたからです。
前線に送られた彼らは“犠牲になってもかまわない存在”だったのです。
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┣■日系人兵士が見た“戦争の現実”
◆死傷率が極端に高かった『442連隊』
・中でも、最も過酷だったといわれる戦闘に参加していた二世がいる。
◇シグ・ドイさん(95)
ほら、上の方に小さいのが一輪咲いていますよ。
サクラももうすぐですね。
1944年10月
・ドイさんは1,200人の仲間と共に、ある命令を下された。
「【ドイツ軍】に包囲されている味方の白人兵、約270人を救出せよ」
というものだった。
・戦場となったのは、鬱蒼と生い茂った森の中。
敵の姿が見えない状況で前進していた時だった
四方八方から銃弾が撃ち込まれ、ドイさん達はそれを目当てに突撃を始めた。
◇シグ・ドイさん(95)
あの時のことは、きっと話しても理解してもらえないでしょう。
人が吹き飛ばされ、内臓が木に引っかかっているのを目にしました。
脳が半分吹き飛ばされ、バラバラになるのも見えました。
脚を撃たれたりしてすぐに負傷すれば幸せな方です。
前線から離れられるのですから。
一番辛かったのは(負傷もせずに)毎日を生きることでした。
・戦闘開始から4日後、白人兵達は多くが無事に救出された。 ※約270人
その代わり、日系人部隊は800人以上が死傷するという大きな損害を被った。
人と人が殺し合うという“残酷さ”。
人種によって命の重さが異なる“理不尽さ”。
それが戦争だと頭で分かっていても、「心は今も乱れる」と言う。
◇シグ・ドイさん(95)
そのことで私は70年間も苦しんできました。
今でもよく眠れません。(号泣)
だから本当は考えたくありません。
・・・ でも、逃げられないのです。 ※唇を震わせながら涙ながらに語られていた
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◆矛盾だらけの戦場で「アメリカ人になるため」に戦い続けた『日系人部隊』。
戦争末期には“究極的な体験”をすることになった。
その現場にいた1人、
◇ススム・イトウさん(95)
1945年4月
【ダッハウ強制収容所】
イトウさんたちの部隊は「【ダッハウ強制収容所】の解放」の任を担った。
この収容所にはユダヤ人など20万人が収容され、そのうち4万人が殺されていた。
◇ススム・イトウさん(95)
季節外れの雪の中、沢山の死体が転がっていました。
歩いていた、あるいは歩こうとしていた人達の多くは、とても痩せこけて
いました。ほとんど骸骨のようでした。
その光景はショッキングで、気の滅入るものでした。
・アメリカの強制収容所に家族を残した二世たちが戦場で目の当たりにした、
ナチスの収容所。
「人間の尊厳」を踏みにじる戦争の現実そのものだった。
◇ススム・イトウさん(95)
そこで起こった不当な出来事を知って、
アメリカの収容所にいる家族や友人を思い浮かべました。
なぜ人間は、人種や宗教の違いを理由に1つの集団に対し
こんなことができるのか、なぜこんな事が起こりえるのか。
私はそう強く感じたのです。
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┣■スタジオにて
Q.日系二世の元兵士の心もようは複雑だった?
A.
◇竹沢泰子 教授 京都大学
そうですね。彼ら二世の人達は、元兵士の人達は、戦場で絶えず「親のこと」を
考えていたって言うんですね。
そして“自由と平等”の国であるはずのアメリカが片方で【ナチスドイツ】から
ユダヤ人を救出し、もう片方で自分の国で憲法を破って、そして人権を破って
財産を奪い、鉄条網の後ろに囚人のように扱ったわけですから、
“大きな矛盾”を感じたでしょうね。
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Q.矛盾を感じながらも命を懸けて戦う決断をしたのは、どんな気持ちから?
A,
◇竹沢泰子 教授 京都大学
過酷な戦争を戦ったわけですけれども、あの戦争を耐え抜いた精神力っていうのは
まさに「差別がどれだけ強かったか」を表しているわけですね。
あのままもし徴兵されたり、あるいは志願兵に募られた時に「No」と答えていた
ならば、自分達は一生「二級市民」のままである。
それならば、あるいは鉄条網に囲まれた生活がいつまで続くか分からない。
それであるならば“大きな賭け”に出て“何か大きなことをしない”と、
とてもあの状況は変わらないと思ったと思うんです。
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Q.収容所内での意見の相違はなかった?
A.
◇竹沢泰子 教授 京都大学
すごく大きな葛藤の毎日の連続で、何日も夜通し話し合ったという風に言ってます
けれども、でも一般的には日本生まれの親は、あるいは日本で教育を受けた人達は
やはり『天皇』日本側でしたし、彼らはやっぱり『アメリカ市民』なので、
彼らのほとんどは「アメリカに忠誠を尽くしたい」と思っていた。
◇国谷裕子 MC
そうですね。 二世の方?
ですから、それはその後、何十年も続くことになる大きな亀裂を、
極親しい人の間で生み出すことになりました。
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Q.収容中の理不尽な扱い 戦場では同じアメリカ兵の中でも差別はあった?
※日系人の兵は少年だったのではないか?
A.
◇竹沢泰子 教授 京都大学
そうですね「捨て石説」今でも見方が2つに分かれていて、
「捨て石説」か、いや捨て石じゃなかったんだと「彼らはベストだったからだ」と
「捨て石」だと言うと、遺族の方にしてみればあの19、20歳の青年たちの死は
なんだったのかということになります。
軍の当時の上層部が書いた手紙の中でも
「日系人はずば抜けた戦闘能力を持っている、彼らは非常に忠実である」
と高く評価しているんですね。
ですから「捨て石」だとも言い切れない。
しかしまあ、数もそうですし、それから敵が3倍もいる所の崖っぷちの中を
駆け上がって銃弾の嵐の中を突撃しろという、その命令自体もそうですし、
その彼らの命が、いわゆる白人、ヨーロッパ系アメリカ人の命の何分の1と
考えられていたんだろうと思わざるを得ないですね。
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Q.戦場から帰ってきた後、アメリカ人の日系人を見るまなざしは変わった?
A.
◇竹沢泰子 教授 京都大学
「大きく変わった」と思います。
やはりアメリカでは「戦争で命を懸けて戦った」っていうことは誰も何も言えない
ですよね。
ですから彼らの存在が戦後の日系アメリカ人の地位上昇に大きな役割を果たした
こと、それは間違いないと思います。
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┣■日系人兵士の戦後
◆戦争を語る困難さ
アメリカ・ロサンゼルス
【全米日系人博物館】:日系人の歴史を伝える。
ここには、戦後70年経った今も、戦争に従軍した日系アメリカ人の資料が数多く
寄せられている。
◇グレッグ・キムラ 館長 全米日系人博物館
この絵は母親が作った「千人針」を受け取って出征する二世兵士の姿です。
※収容所にいた女性が保存していたスクラップブック
悲しいですが、これは亡くなった二世兵士のお葬式の写真だと思います。
「彼らは無駄死にじゃない」と書いてあります。 ※英語で
・苦しい胸の内を抱えながら戦い続けた二世達。
そうした思いを、生き残った二世達は長い間伝えることができなかったと言う。
◇グレッグ・キムラ 館長 全米日系人博物館
これまでほとんどの二世は自分の経験を語ってきませんでした。
耐え忍んできた苦しみや悲しい記憶から「三世や下の世代を守ろうとしてきた」
のです。
・白人兵を救うための戦闘で多くの仲間を失った
◇シグ・ドイさん(95)
一世が言ってましたよ「年取ったらだめよ」って。
※この部分は日本語で
戦後、農業やレントゲン技師をしながら4人の子供を育て上げたドイさん。
ドイさんもまた子供達には戦前・戦中の苦労を一切口にしてこなかった。
日系人が差別を受けることなく“アメリカ社会に溶け込むため”には、
過去をあえて蒸し返す必要はないと考えたからだ。
◇シグ・ドイさん(95)
子供達には「自分より良い生活をして欲しい」と思ったのです。
父親である私が経験したことは知らなくていい。
それを知っても何もいいことはないのですから。
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◆しかし1970年代、日系人社会に変化が起こる
・若い三世達が『収容所の辛い体験』をアメリカに認めさせるために、
一世や二世達に経験を語るよう勧めた。
こうした運動の結果、レーガン大統領が補償を言明した。
1988年
◇レーガン大統領(当時)
日系アメリカ人の強制収容は過ちだったと、私達は認めなければなりません。
公式にかつての政策を謝罪した。
これを転機に「強制収容の歴史」は次第に広く語られるようになる。
ただ、あまりに過酷だった戦場体験については、沈黙を守り続けた二世も少なく
なかった。
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◆しかし、戦後70年。
改めて二世達は「自分達の経験を歴史に残しておきたい」と考えている。
◇シグ・ドイさん(95)
昔のことを思い起こして話すのは、とても辛いことです。
できれば忘れたいことですから。
でも忘れるなんてできません、まぎれもなく自分の中に刻まれていること
なのですから。
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┣■スタジオにて
Q.話すよう背中を押したのは戦争を体験してなかった三世、次の若い世代だった?
A.
◇竹沢泰子 教授 京都大学
そうですね。
1970年ぐらいから『アジア系アメリカ人運動』が始まるんですが、
彼らは親から聞くんじゃなくて、外に行ってそれを初めて知るんですね。
高校生、大学生になって「なんで今まで言ってくれなかったんだ」
コミュニティーの誰一人も言ってくれなかった。
そういう風に怒ってから、彼らがだんだん補償運動もあって話し始めたという
ことだと思います。
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Q.知ることで謝罪と補償につながる なぜそれがうまくいった?
A.
◇竹沢泰子 教授 京都大学
そうですね。1つには彼らがきちんと継承して、例えば補償の時もそうです
けれども、『9・11』の後「アラブ系アメリカ人をまた収容しよう」という声が
全米で上がった時に
「真珠湾攻撃の後の私達のお爺さん、お婆さんと同じじゃないか」と、
彼らが声を上げて歯止めをかけたということ。
それから2つ目は、彼らが
「白人の人種主義と白人」あるいは「アメリカ政府と白人」というのを分けて、
白人を糾弾しはしなかった。
いわゆる『人種や民族の対立』という構図にしなかった。
普遍的な問題とすることで、あるいは普遍的な問題と考える、共に考えることで、
“共感の輪”というのが広がっていったんだと思います。
◇国谷裕子 MC
まだまだ語り切れていない元兵士達の言葉、
本当に時間も無くなってきましたけれど、まだまだ耳を傾ける?
ようやく語り始めたところじゃないでしょうかね。
◇感想‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
┣・昨年放送されたNHK【クローズアップ現代】の中で、一番感銘を受けたのがこの
『“Nisei”たちの戦争 ~日系人部隊の記録~』の回でした。同番組はサイトでの
フォローUPもしっかりとしていて既に同様の放送内容を公開しているわけですが
個人的にも保存しておきたく、こうしてメモし直してみた次第です。
┣・細かく調べてみると既にドキュメンタリー作品、または映画として語り告げられて
いるようですが、正直私は昨年2015年迄その日系人部隊の『ヨーロッパ戦線』での
話を知りませんでした。放送を見た思いは◇竹沢泰子 教授 京都大学が仰ったこと
そのものでしたが、本当に酷い話です。
┗・今再び同じような事態が起ろうとしておりますが、利己主義な輩に踊らされること
なく、冷静に対応していきたいものです。まずは報道規制の是正からでしょうか?
安倍政権になってから海外メディアとの接点が著しく減らされたと、自称TVッ子
世代としては実感している次第です。腰抜けのメディアに対しては断固抗議をする
べきでしょう。ボケ~っとしていると寝首をかかれまっせ、旦那・女将さん方(笑)