2015/06/03(水)<戦後70年 ニッポンの肖像 豊かさを求めて「第1回」“高度成長”何が奇跡だったのか>
【NHKスペシャル】 http://www.nhk.or.jp/special/
*敬称略しています。 また長文ゆえ誤字脱字が多いです。ご了承ください。
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┏┓NHKスペシャル 戦後70年 ニッポンの肖像 豊かさを求めて
┃ 第1回 <“高度成長”何が奇跡だったのか>
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http://www.nhk.or.jp/po/channel/119.html
豊かさを求めて
第1回 “高度成長” 何が奇跡だったのか
「夢の超特急」「夢のマイホーム」「夢の海外旅行」そして「夢の所得倍増」
1960年代、日本には「夢」が溢れていました。
焦土と化した第二次大戦の敗戦からわずか20年余りで世界第2位の経済大国に
上り詰めた日本。世界史上、類を見ないスピードで復興し、高度経済成長を
成し遂げたその復活劇は、世界に「日本の奇跡」と称賛されました。
戦後、豊かさを求めてきた私たち。
翻って今の日本は、低迷が続き、未だに再浮上の糸口をつかめないままもがいて
います。あの「奇跡」はなぜ起こったのでしょうか。時代の産物に過ぎなかった
のか、それとも日本の真の実力だったのか。
奇跡と呼ばれた高度成長の、何が実力で何が幸運だったのか、膨大に残る関係者
の音声テープ、新資料から検証します。 高度成長の真の姿を明らかにし、
今に生かせる教訓を探ります。
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┣■高度成長時代
◆「明日は今日よりも豊かになれる」日本人の誰もがそう信じることが出来た時代。
◇下村治 大蔵省 官僚
本当に文字通り「千載一遇の幸運」を、我々は幸いに100%に近い形で
自分のものとして生かすことができたということじゃないですかね。
・日本は幸運をどう実力に変えたのか。
◇小松勇五郎 通産省 官僚
「自動車みたいに高度な技術 日本には無理です。」
その時に(外国から)お説教を食いましてね。やっぱり不愉快でしたねぇ。
まぁ今に見ておれと。。
◇池田勇人 総理大臣
10年で(所得を)2倍にすることは何でもない。
あなた方のエネルギー、活力、想像力というものは
世界の歴史に、どこにあったでございましょうか。
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┣■日本の戦後70年の経済成長率の推移
◆「高度成長」「石油ショック」「バブル崩壊」「リーマンショック」
約20年 失われた20年
9.1% 0%下回る 0.9%
『高度成長期』
1955年から20年近くに渡って平均9.1%。10%を越える年もあった。
当時外国から「日本の奇跡」と驚きを持って見られた。
・高度成長は1955年の前、1945年の終戦直後にその礎が生まれた。
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┣■<終戦直後の日本>
◆高度成長など誰も想像できなかった終戦直後の日本。
闇市でメモを片手にモノの値段を書き留める男がいた。男は大蔵官僚だった。
しかし病気がちで出世コースからは外れていた
◇下村治 大蔵省 官僚 ※『高度成長理論』を打ち立てる
・戦後の闇市である発見をする。客は乏しい財布をやりくりしながらも
旺盛にモノを買い求め、店先には粗末ながらもモノが溢れていた。
“消費欲”と“生産意欲”
・経済成長の最も大切な2つの要素を下村は、どん底の日本に見て取れた。
この発見が後の『高度経済理論』の出発点となった。
・生涯“黒子”に徹した下村。晩年の貴重なインタビューが残る。
「証言現代史 下村治 高度成長のシナリオ」
『下村の持論』
経済成長は単に数字を追い求めるものではない、というものだった。
◇下村治 大蔵省 官僚 ※『高度成長理論』を打ち立てる
「貧乏」と「失業」の問題。そういうような重圧があるために
間違って大きな戦争に駆り立てられるような気持ちに、みんながなってしまったと
成長によって解決される、あるいは解消される、という問題がいくらでもある。
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◆しかし『下村の理論』が『所得倍増』という言葉で、日本経済を力強く牽引する
までには、まだ10年以上の時を待たなければならなかった。
・その頃の日本経済は、GHQ本部・マッカーサーの占領政策により、瀕死の状態に
追い詰められていた。最大の産業だった『軍需産業』は粉々に破壊された。
さらに“経済の民主化”実現のため『財閥・大企業の解体』の準備を進めていた。
工業生産は戦前の4割にまで落ち込んだ。
アメリカ陸軍次官
・この容赦ない占領政策に対し、待ったをかけたのがウィリアム・ドレイバー。
「私は現状を把握するために日本に行く必要が出てきました。
やるべき仕事ができたのです。」
・ドレイパーはウォール街の投資銀行の経営者の出身。関心事は日本の民主化よりも
ビジネスだった。アメリカの投資銀行や大企業は戦前、日本に巨額の投資を行って
いて、鉄道や電力などのインフラ建設や、関東大震災の際の復興資金だった。
その額は5億ドルで、現在の価値で80億ドルにのぼるという。
◇マーク・メツラー 教授 テキサス大学 歴史学
ウォール街にとって最も重要なことは、戦前に行った投資をできるだけ早く
確実に回収することでした。彼らは自分たちの資産だけでなく、
顧客が投資した資産を守る必要もあったのです。
・なんとしても資金を回収したいドレイパーは、再三マッカーサーに経済政策を
見直すよう勧告したが、マッカーサーは聞く耳を持たなかった。
・この時、瀕死の日本経済を救う幸運が訪れた。【東西冷戦】の深刻化だった。
・アメリカでは日本を“反共の砦”にするため、懲罰よりも経済復興を優先させる
考えが一気に台頭した。ドレイパーは機を逃さず日本を訪れ、占領政策の転換を
マッカーサーに強く求めた。
◇ウィリアム・ドレイバー3世(ドレイパーの息子。投資会社経営。)
マッカーサーはそれほど反論しませんでした。彼は軍人で経済のことが分からず
父の助言に頼らざるを得ませんでした。父は根っからの“資本主義者”でした。
日本経済が繁栄すれば、それはアメリカの経済にとって大きなメリットになると
考えていたのです。
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◆その会談から2年後に起きた【朝鮮戦争】1950~1953年で、日本経済は大きく息を
吹き返した。懲罰から復興支援に180度方針を変えたアメリカは日本企業から
大量の軍事物資を購入。
『朝鮮特需』
鉄鋼、機械などの生産が急拡大。GNPの伸び率は1950年から3年連続で
10%を超えた。
・しかしこの好景気は長くは続かなかった。朝鮮戦争終結と同時に“特需”という
カンフル剤は消えた。日本にはまだ自力で成長する力はなかった。
・1954年のニュース
「街に吹く不況の風は日ごとに失業者の数を増やし、その厳しさを物語っている
ようです。」
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┣【通商産業省】
◆一刻も早く国の成長を支える「基幹産業」を起こすことが必要だった。
産業政策を担っていたのは通産省で、官僚たちは連日議論を重ねていた。
“資源のない日本”は「何かを作って生き残る」しかなかった。
・目の前にある道は2つだった。
『軽工業』
繊維・雑貨など。軽工業は軍需産業に指定されなかったため戦後すぐに復興。
特に繊維は安い人件費を武器に輸出は好調だった。
『重工業』
車・家電・鉄鋼など。しかし自動車や家電など民間産業は戦争で大きく立ち遅れ
戦後も工場の操業が制限されたため全く進んでいなかった。
<当時の官僚達の議論の様子> ※【機会振興協会】にて録音保存されている。
◇佐橋滋 元通産省事務次官
恐ろしいスピードで織物は復活したわけですね。本当に売りまくりましたからね
ところがいかにそれはね、世界中の国々は先進国というのは工業製品を作るんで
あって、繊維なんてものは開発途上国がようやく工業に手を差し伸べることが
できた初頭段階くらいに思われていたから・・・
◇大慈弥嘉久 元通産省事務次官
重化学工業化というのは技術革新の余地が多いと、重化学工業しかないという
ことでまとまったんです。企業の国際競争力なんだと。それにはやっぱし
重化学工業しかないんだと。
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◆官僚たちが選んだのは重工業への道だった。“茨の道”であっても付加価値が高い
重工業の方が経済成長の伸びしろが期待でき、大量の労働力を吸収できる。
◇両角良彦(95) 元通産省事務次官
誰だって日本を一流国にしたいと。戦に負けたその負担を、あるいはその恥を、
元に戻したい、あるいは取り返したい。そういうことはね、無意識のうちに
みんなそこにあるわけですよ。我々にとって一番くるのは
工業力でやれることはやろうじゃないかって。なせかっていうと、それは
やはり日本人にはそういう能力があるんですよ。*頷き、確信の眼差し*
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┣■“戦争の遺産”
◆官僚たちに「重工業化」に踏み切らせたのは“戦争の遺産”ともいうべき大量の
技術者の存在だった。日本は戦時中、技術者の養成に力を注ぎ、軍の教育機関や
大学の工学部では多くの若者が学んでいた。
戦時中、最高のエリートを集め、技術士教育を施した組織
【東京帝国大学第二工学部】 ※千葉市 化学を学んだ教室の建物が現存している。
昭和17年~26年。僅か9年間だけ存在した学部。
・戦争遂行のために作られたこの学部は、戦後まもなく廃止され、幻の“戦犯学部”
とも呼ばれた。教壇には「戦闘機の設計者」や「船舶のエンジニア」たちが立ち、
学生たちは実践的な知識を叩き込まれた。
◇黒田彰一(91) 黒田精工 最高顧問
戦争中に家業を継ぐ。現在では海外に九つの拠点を持つ世界的な精密機械メーカー
に育て上げた。「零戦のゲージはみんなウチが作りました。」
精密測定機器
・大学での専攻は兵器の製造を学ぶ『造兵学科』に所属し、魚雷や大砲など兵器に
使われる機械を精密に作るための理論を学んだ。戦争中は零戦のゲージの製造を
一手に任されていた。戦後も高い精度を誇るその技術は自動車作りに必要な特殊な
金型や精密工作機械の開発などに生かされた。
「(第二工学部は)新設校のバラックなんですからね。
ある意味じゃ雰囲気とすりゃあ、荘重な趣が全くないんですよ。(苦笑)
でも地面は沢山ありますから、戦車の操縦なんかもできましたからね。(笑)
兵器というのが一番精密なんですよ。だから非常に面白いですね。
技術って言うかなぁ、工学って言うのはどっちにも使えるわけですよ。
兵器にもね、医学みたいなものにも。使うのは人間ですから。」
・ダイキン工業社長、三菱商事社長、日本製鋼所社長、三井造船社長
マツダ社長、ソニー副社長、日産自動車社長、富士通社長、デンソー社長
昭和電工社長、日立製作所社長、鹿島建設社長、日本電信電話公社社長 etc.
・最高峰の技術者教育は「自動車」「家電」「造船」など
後の高度成長を牽引する人材を数多く育てていた。
◆通産省の官僚たちは戦争が図らずも育てていたこの技術者たちを活かすことで
重工業化という困難な道を切り開こうとした。
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┣【自動車産業】の育成
◆「自動車は国産時代」
・通産省が取り組んだのは【自動車産業】の育成だった。【自動車産業】は
鉄鋼、ガラス、ゴムなどの裾野が広いため、成功すれば重工業全体が拡大し
莫大な雇用を生み出せる。通産省は“欧米に負けない車”を作るための
“時間稼ぎ”として、徹底的な『保護貿易』を行った。輸入車には40%
もの関税をかけた。日本市場を狙う欧米から激しく関税の引き下げを迫られたが
盾となって【自動車産業】を守り抜いた。
◇小松勇五郎 元通産省事務次官
・今から考えたら考えられないような「輸入制限」「高率関税」をかけてましてね
保護していたんです。それが(外国の)お気に召さないんですね。
その時にお説教を食いましてね。
「自動車みたいに高度な技術、資本集約産業に今から行くことは無理です」
「自動車が欲しければ買いなさい」
「それを買うお金は日本が繊維や雑貨、得意なものでね稼いだらいいじゃないか」
・やっぱりぃ不愉快でしたねぇ。*苦虫を噛む表情*
やっぱりね、お腹の中ではね、まぁ今に見ておれと。
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◆通産省は後に日本の“ものづくり”を大きく発展させる法律をこの頃に制定した。
『機械工業振興法』臨時措置法を制定
最終製品を造るメーカーだけでなく、大企業に部品を供給するメーカーも
支援しようとした。資金繰りが苦しい中小企業でも低い金利で融資を受けられ
思い切った設備投資が可能となった。
◇山本重信 元通産省事務次官
これは相当、担当者がみんな努力してですね、どちらかというと中小・中堅企業の
機械設備が遅れているようなところにですね、世界最高の水準をいくような特殊な
ものを導入してですね、製品のレベルアップをですね、まあやろうっていうんで
・精密機器メーカー【黒田精工】もこの政策の恩恵を受けた。当時の金額で2千万円
現在の価値で言えば1億2千万円の融資を受け、イギリスなどから最新の研削盤を
購入(『イギリス製ネジ研削盤』)。海外の機械を徹底的に研究し、改良を加えた
独自の機械を開発。さらに技を磨いた。
◇黒田彰一(91) 黒田精工 最高顧問
やっぱり研削というのは精密加工にとって一番大事ですからね。
研削は(この機械で)ずいぶん勉強しましたね。
(この機械を)モデルマシンにしてね、あとは自分で作りましたけどね。
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◆日本の経済成長率は1955年、8.8%を記録。これが高度経済成長の出発点
となった。しかし当時は誰もこの成長がこれから20年近くも続くとは考えては
いなかった。ただし一人、後に『高度成長理論』と打ち立てる大倉官僚・下村治は
この好景気は“歴史的”な経済成長の始まりになることを見抜いていた。
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┣■スタジオにて
“戦争の遺産”が成長の礎に
◇五木寛之(82) 作家 ※中学1年で終戦を迎える。戦後、朝鮮半島から引き揚げ
・戦後ちょうど中学生から高校生になっていく、その過程なんですね。
敗戦の詔勅(玉音放送)を中学校の校庭で全員集まって聴いたときに
その後にね、校長先生が声涙ともに下る演説をされたわけですね。
「日本は負けた。だけどその負けたのは日本人の魂で負けたのではない。
精神で負けたのではない。科学技術というか、アメリカの物質と科学技術に
負けたのだ。だから今後君たちはね、大人になってアメリカに負けない
科学技術の国にしなくてはいけない」と訓示をなさったんですよね。(笑)
そのことをなんかね、一種の違和感を覚えながら、すごく鮮明に覚えていますね。
◇石丸典生(86) デンソー顧問 ※戦後【東京大学第二工学部】に入学
自動車エンジンを研究。
・第一工学部と第二工学部の違いってよく言うんですけどね。何が違うかっていうと
第一工学部ってやっぱりね「学者」というか基礎学を教えることが主眼であってね
第二工学部はですね、若い先生が来たとかですね、実際に工場で働いていた先生が
どちらかというと実践的なね、教育が多かったんですよ。
(戦後を引っ張っていくような人たちが沢山生まれてくるのは、
そういった教育と関係ありますかね?)
・あると思うんですよ、私はね。あのぉ東大だけでなくてですね、各大学もですね、
技術者の養成には戦時中から非常に力を入れておりましたし、だからそういう
技術者ってのは沢山いたわけですね。というのはですね、文系の方は戦争に行って
亡くなる方が多かったかもしれませんけど、技術者は軍事産業のためにですね
戦争に行かない人が多かったわけですよ。
(兵器に通じていた技術を、どういう気持ちでこの“新しい時代”に生かそうと
しておられたのでしょうか?)
・兵器だってですね、その平和産業だってね、基礎にある技術は全く共通したもの
ですからね、戦後は。そのエネルギーは全部「民間」に向かったと考えればいい。
◇五木寛之(82) 作家
・それはね、ある意味では、敗戦と同時に日本という国がリセットされて、
全く一からスタートしたような錯覚があるんだけれども、本当はそうではないんで
ないかという風に思うんですね。戦後の日本の復興っていうのはね、
戦前戦中に育てられた「人材」と「技術」と「思想」というものが
戦後に実を結んだという、それに尽きると思うんですね。
◇石丸典生(86) デンソー顧問
・大体「技術」というのは途切れないものなんですよ。ちょっとそういう意味ではね
いわゆる文化とは違うところがありましてね、文化とは“突然変異”がいくらでも
できるんですけど、技術ってーのは“積み重ね”なんですよ。
科学はだから“継続”していくものです。だから戦前のものは必ず必要だとね。
◇五木寛之(82) 作家
・技術力があると。しかしね、その技術力だけでは駄目なんで、1つの経済を
ちゃんと立案して遂行して行く上でのプログラムというか、計画を立てて、
その計画だけではなくて経験が必要なんですよね。そういうものがぜーんぶね、
戦後の驚くべきその経済発展のね、礎になっていると僕はそう見てるんです。
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┣■高度成長スタート
◆日本は1955年から2年連続で高成長を記録していた。しかし日本人の多くが
いずれまた大きな落ち込みが来ることを覚悟していた。
◇下村治 大蔵省 官僚
一刻も早く日本の成長を支える理論を打ち立てようと、論文を執筆を急いでいた。
しかし死の病と恐れられた『肺結核』に倒れていた。それでも病床で執筆を続けた
◇下村恭民 下村治の息子(開発経済学者)
病気との競争という感じで書いていたんだと思いますけど、でも本人も鉛筆で書く
こともなかなか難しかったので、最後は普通の文章は口述筆記で母に書かせていた
ということでした。
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◆3年間の闘病から奇跡的に回復、論文を完成させた。
『経済変動の乗数分析』1956年
この理論を基に下村が導き出した予測は成長率10%しかもそれが10年近く続く
という途方もないものだった。しかしこの予測は後に実際に起こった成長と見事に
一致した。
・病気で失った時間を取り返すかのように、下村はあらゆる雑誌に寄稿。
“日本経済に潜む成長力の高さ”を訴え始めた。
◇下村治 大蔵省 官僚
まあ、誇大妄想みたいに受け取られたきらいがあるんじゃないですかねぇ。
えー、ほとんどまともに受け取られなかったですねぇ。
「そんなことはできるはずがない」というような感じだったと思いますけども。
『経済白書』1956年 ※日本経済の成長と近代化(経済企画庁編)
・有名な一節 「もはや『戦後』ではない。」
この言葉はゼロからの戦後復興が一区切り付いたこの時期、もう今までのような
経済成長は期待できないという意味だった。 ※悲観的だった
◇金森久雄 元経済企画庁研究員
下村治の『高度成長理論』を口頭無形だと感じていた。
・「もはや『戦後』ではない」という経済白書の議論っていうのはね、
そんな高い成長力が日本にあるとはみんな思わなかったわけです。
ところが日本が高い潜在成長力を持っているという風に考えたのは
これはやっぱり下村さんの“天才”だと思いますね。う~ん。 ※車椅子、御高齢
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◆なぜ下村は唯一人、日本経済の成長を信じることができたのか?
・『ケインズ理論』を学んだ下村はそれを発展させ、経済成長の起爆剤は
“民間企業の設備投資”だという結論に至った。終戦直後から下村は工場を歩き、
貧弱な設備でも工夫を凝らし、1つでも多くの製品を送り出そうとする生産者の姿
を目に焼き付けていた。“生産意欲”が溢れている。あとは企業の“設備投資”を
促す政策さえ打ち出しさえすれば、飛躍的な成長が自然と始まると考えていた。
・例えば、
鉄鋼メーカーが設備投資によって“質の良い鉄を安く作れる”ようになれば
鉄を使う自動車や家電製品も“価格が下がる”。自動車や家電が安くなると
それを買い求める人々が増え、自動車や家電メーカーも増産のために設備投資を
行う。すると今度は鉄の需要が増え、鉄鋼メーカーは新たな設備投資へと向かう
・この循環があらゆる産業で起これば、爆発的に日本の経済は成長する。というのが
下村理論の核心。
◇下村治 大蔵省 官僚
産業界の設備投資が、イノベーションの力で経済を推進していく。
そうすればその結果としてどのような成長が出てくるか、というような形で
展望を作ったということなんです。
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┣■国民所得倍増計画
◆1958年夏、孤軍奮闘を続けていた下村は一人の政治家と運命的な出会いを
果たした。政策の勉強会にブレーンとして招かれた。待っていたのは・・・
◇池田勇人 衆議院議員
大蔵大臣や通産大臣など歴任するなど将来を嘱望された政治家だったが、
「税金が高いから死ぬというのはどうかと思いますが、とにかくまぁ・・・ 」
“中小企業の倒産や自殺はやむを得ない”
相次ぐ失言で次第に“総理大臣の器ではない”と見られるようになっていた。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
◆総理の座を目指すため“目玉”となる政策を探していた池田は下村の高度成長論に
飛びついた。池田は数式が並ぶ難解な下村の理論を、完全には理解できなかった。
しかし“日本には高い成長力が潜んでいる”という下村の考えには強く共感した。
・難解な下村の理論を誰にでも理解できる言葉を置き換える。『所得倍増』だった。
【第一次池田内閣】1960年7月
『所得倍増論】を掲げて総理大臣に就任。
Q.もし実現しなかった場合には責任と取るかという質問に対しては?
A.
・池田勇人 総理大臣
これはね、政治家はね「一言一句」「一挙手一投足」責任を取ります。
総裁が責任を負います。
『国民所得倍増計画』
・池田は下村の理論通り、企業の設備投資を促すための政策を次々に打ち出していく
・税収の6%にも当たる1000億円の「大減税」(法人税・所得税)を断行、
さらに銀行の「貸出金利を引き下げ」、企業が融資を受けやすい環境を作った。
・資金が生まれた企業はこぞって強気の設備投資に走り出した。
・精密機器メーカー【黒田精工】もこの時期に大きな設備投資に踏み切ったという。
2億円余りを投じて最新の工作機械を並べた工場を相次いで建設。自動車が家電用
のモーターに必要な金型の量産体制を整えた。
◇黒田彰一(91) 黒田精工 最高顧問
まず人間がやっているものは機械化する。機械化するものは自動化すると。
あの時代はね本当に(売り上げが)3年で倍にならなきゃ人並みじゃないみたいに
銀行まで言ってましたからね。(苦笑) 凄い時代ですよ。
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◆池田の政策から僅か1年で
『設備投資額』
全産業 28%増
自動車 35%増
・そしてこの時、日本経済にとって“最大の幸運”が訪れようとしていた。
『人口ボーナス』
終戦長後のベビーブームの世代が働く年齢に達した。しかも子供が少なく高齢化も
進んでいなかった。働く世代(現役世代)が極めて多いという現象が起きた。
途上国が先進国に生まれ変わる過程でたった1回だけ起きる現象だと言われる。
・働く世代は子どもにお金が掛からず、高齢者向けの負担も少なく、収入の多くを
消費と貯蓄に回すことができた。
・人々の旺盛な消費は大量生産される製品を飲み込み、貯蓄は銀行を通じて企業の
設備投資の資金へと変わる。「企業の大増産」と「巨大な国内市場」で高度成長が
本格的に始まった。
・企業は欧米から“猿まね”と馬鹿にされようと、たゆまぬ技術革新で大量生産と
コスタダウンを実現。
・消費者は“毎年重さが増す給料袋”を手に「次は何を買おうか」悩むのが喜び。
2軒に1軒しか無かったテレビはほぼ全ての家庭に行き渡り、
高嶺の花だった自動車も4分の1の家庭が持つようになった。
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◆豊かさを求めて走り出した国民に、池田のだみ声は鼓舞し続ける。
「日本人、すなわち世界一勤勉な、世界一流のいい頭を持ち、そうして
自由主義経済の元で行くのなら、10年で2倍にすることはなんでもない。
いつまでも後進国でおるわけにはいきません。
国民の皆さん、一緒に行こうではありませんか。」
【東京オリンピック】
高度成長真っ只中の1964年に開催され、この開会式の出席が池田の総理大臣
としての最後の仕事となった。癌に侵されていた池田は、この後辞任を表明し、
翌年息を引き取った。
・池田の死後『所得倍増計画』から3年後の1968年
日本のGNPは52兆円を突破。所得倍増を達成。世界2位の経済大国に躍り出た
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
◆一人の天才の理論が日本が蓄えてきた実力を引き出し、一瞬の好機を捕らえた。
実力と幸運がこれ以上ないタイミングで結びついて成し遂げられた「日本の奇跡」
だった。
◇下村治 大蔵省 官僚
本当に文字通り「千載一遇の幸運」と言っていいような幸運に恵まれた。
その幸運を我々は幸いに100%に近い形で自分のものとして生かすことが
できたということじゃないですかね。
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┣■スタジオにて
なぜ起きた“奇跡の成長”
◆「所得倍増の時代」想像がつかないんですけれども、
どういう時代だったのでしょうか?
◇石丸典生(86) デンソー顧問 ※カーエアコンの開発責任者
・とにかく皆さんがね、欲しいものが沢山あった。またその沢山欲しいものをですね
企業が提供できたというのがやっぱりその最大の原因だと思うんですよ。とにかく
需要があればですね、企業はものを必死になって作りますからね。
◇五木寛之(82) 作家 ※成長神話から抜け出し日本の新たな姿を示す
『下山思想』を提唱。
・いやー今伺ってて、戦争中のスローガンの1つに「欲しがりません。勝つまでは」
っていう風にね、(笑) 嫌っていうくらいね。(苦笑) ※石丸氏と同意し合う。
戦争は勝てなかったですよ。その代わり経済的な復興を成し遂げて、一応なんか
再び立ち上がったって実感があったから「さぁこれで欲しい物は買っていいんだ」
っていう、そういう感じになったんじゃないですかね。それは欲しい物は山ほど
ありましたよ。どんどん出てくるし。物質的な刺激される物が多すぎて、本当に
夢にまで色々見ましたもの。*少し困り顔* ※石丸氏(笑)
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◆1960年~1970年の10年間で
乗用車の生産台数 19倍
乗用車の輸出台数 100倍
・凄いですよねー。どうしてここまで強い産業になることができたと思いますか?
◇五木寛之(82) 作家
・『需要』だと思いますね。みんなの。「自動車に乗りたい」
◇石丸典生(86) デンソー顧問
・それでガールフレンドでも隣に乗せて、湘南の海岸をこう音楽を流しながら
走りたいとかね。(笑) エアコンが付いてたら最高だったとか、駄目じゃない
とか同じような話ですけどね。
・1960年代はですね、日本の住宅が非常にね貧弱だったです。クーラーは無いし
家庭には。ところがね自動車にはちゃんとヒーターもあればね、エアコンもあるん
ですよ。それで立派なオーディオがあって、ウチの奥さんに邪魔されずに
一人楽しむことができたんですよ。*一同笑い* 僕もそれやりましたよ(五木)
そのようなことでも自動車は売れたと思いますよ。単なる足じゃなくて。
(人がいて欲しいと。それに応えるような形で?)そうそう、そうそう。
ねぇ、人間に欲望があって、それに対する応えるだけの能力があったと。
だから高度成長できたんですね。
◇五木寛之(82) 作家
・池田さんは「所得倍増」と言いましたよね。“政治生命”懸かっているわけですよ
相当無理してね、国民の実質賃金を上げたと思いますよ。実質賃金が上がるって
ことはですね、企業の利益をある程度圧縮しなきゃいけないんですよ。
つまりそこはね、労働者に沢山払って、会社の儲けとか、剰余金とか積み立てたり
しないで、苦しくても頑張っていこうと。
そこにはね、今最近「強欲な資本主義」とかってよく言われてますけれども、
ある健全なモラルがあったと思うんですよ。それは働く人たちの方が大事だという
形で・・・
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
◆下村治さんは「千載一遇の幸運を生かすことが出来た」と仰ってましたけれども。
高度成長は、幸運か?実力か?
◇五木寛之(82) 作家
・戦争中に神風が吹かずに、戦後に吹いたという感じがありますねぇ。(苦笑)
◇石丸典生(86) デンソー顧問
・『運』というのはねぇ、ひとりでに来るものではなしに、こちら掴みに行かなきゃ
無いという風に私は考えているんですよ。運も確かにありますよ。だけど幸運を
出来る限り自分で掴むように努力しなくちゃならない。その努力はどうすべきかと
いうとやっぱり普段からのね、実力によるわけですよ。実力がなければね、
幸運だって掴めないですよ。
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◆これからは幸運は来るんでしょうか?
◇五木寛之(82) 作家
いやーそれはもう一度“成長期”が来るって考えるのは間違っていると思います。
今私たちは戦後70年って言いますけど、70歳になっているって思いたいんです
よ、国全体が。70歳というのは人生の“円熟期”に入ってるところですよね。
若い人と同じように体力をこうしようとしてもそれは無理ですよ。円熟した人間が
できることってのがあるんですよ。それは20歳の青年には無理なことなんです。
そのことをちゃんとやった方がいいなーっていう風に思いますねー。(苦笑)
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┣■高度成長の歪み
◆1970年代
高度成長のあまりに早いスピードは、社会に“歪み”を生んでいた。
「くたばれGNP」という言葉も生まれ、成長自体を否定する声も出てきた。
・所得倍増という目標も達成し、もはや経済で人々の心を1つにすることは
難しくなってきた。陰りが見え始めた高度成長に引導を渡したのが
1973年の『石油ショック』だった。戦後初めてマイナス成長を記録した。
・かつて誰よりも日本の成長力を信じた下村治も、一転して
「もはや経済成長は望めない」と主張し始めた。
企業の生産性はピークに達したと見ていた。
◇下村治 大蔵省 官僚 ※特別講演「日本経済の現状と今後の展望」より
日本の経済が“落ち着くべき姿”がどこにあるか。
◇金森久雄 元経済企画庁研究員
下村さんが今度は日本の経済は『ゼロ成長』が続く見通しを出したわけですね。
これに対して下村さんは「私の説が変わったわけじゃないんだ」と。
「日本の経済が変わったんだ」ということを言われたわけですね。
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◆しかし下村治の予測は外れた。予期せぬ巨大な力が出現。
『石油ショック』後、企業体質を強化し、再び成長軌道に乗った日本経済に
“世界からマネー”が押し寄せた。地道な“ものづくり”をあざ笑うかのような
力を持つ“マネーの誘惑”に日本は駆られていった。
そして今度は“マネー”が日本の右肩上がりの数字を支えていくことになる・・・
◇感想‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
┣・面白かったけど、メモ取り疲れたぁ。(苦笑) ほぼ筆記状態ですね。
┣・肯定もすれば、否定もする。そんな気分にさせられた良質番組だったと
思います。“運命の出会い”がなければ日本はどうなっていただろう?
┗・「過去を見れば今が判る」。日本は今、終戦直後に巻き戻らされている
ような気がしてなりません。不安ですね、とっても。