台湾人 元慰安婦の証言
2015/07/11(土)<台湾人 元慰安婦の証言>
【報道特集】 http://www.tbs.co.jp/houtoku/
*敬称略しています。 また長文ゆえ誤字脱字が多いです。ご了承ください。
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┏┓特集アーカイブ <台湾人 元慰安婦の証言>
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戦時中、アジア各地の日本軍占領地に慰安所が造られ
日本や植民地だった朝鮮・台湾からも多くの女性が送り込まれた。
慰安婦問題は時に政治や外交問題と化し、
慰安婦の声が歪められてきた側面がある。
戦後70年。私たちは改めて元慰安婦の生の声を聞こうと台湾へ向かった。
時々日本語が混じるお婆さん達の証言を是非聞いて欲しい。
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┣■証言 台湾の元慰安婦 <其の1>
2015年2月11日
台湾最南端
【屏東県】
◆かつて「桃子」と呼ばれた女性がいる。その人は台湾南部のある街で
ひっそりと暮らしていた。
◇日下部正樹 MC
桃婆さんはですね、台湾に帰ってきて、長いことこの青果市場でですね
ヤシの実を売って生計を立てていました。今は引退してますけども、
今もこの青果市場の一角で暮らしています。
◇日下部正樹 MC ◇陳桃さん(92) 元慰安婦
こんにちわ。 こんにちわ。 ・・・ 。*体育座り*
東京から来ました。日本の東京から来ました。 ・・・ 。少し起き上がり*胡座*
聞こえますか? 聞こえない。 ※耳が遠い仕草する
日本から来ました。 ※大きくハッキリと あぁ、コンニチワ。*ペコリ*
こんにちわ。
◇陳桃さん(92) 元慰安婦
ワァ。こんな重たい物、持ってきて。 ※この日、支援団体が馬英九台湾総統からの
(みかん、梨ぃ)※日下部正樹 MC 旧正月の贈り物を手渡した。
分かるよ。 (『みかんと梨』の詰め合わせ。)
ここ(青果市場)売ってるのに。 ※確かにそうだ。(笑)
◇日下部正樹 MC ◇陳桃さん(92) 元慰安婦
桃お婆さんは馬英九総統に何度も会った
んでしょ? 会ったことあるんでしょ?
お婆さんに会いに来たでしょ。 ウン、知ってるよ。何回も来たよ。
何回も来た? フ~ン・・・
日本語覚えてますね、まだ。日本語っ! そうでもないよ。(苦笑)
そうでもない?(笑) もう発音なんか
日本人みたいだ、ねぇ。 私、日本教育受けたのぉ。
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◆陳さんは幼いころに両親を亡くした。16歳の頃、叔父の借金を返すため
別の台湾人の元に身売りされ、飲食店で接客の仕事をするようになった。
◆そして1942年、
身売り先の台湾人から2年間、インドのアンダマン(諸島)に行って
『看護女子』として働くよう言われたという。
※台湾の高尾からベトナム、マレーシアを経由してアンダマン諸島へ。
それは19歳の時だった。
しかし、現地に着くと【慰安所】で日本兵の相手をするよう命じられたという。
◇陳桃さん(92) 元慰安婦
(1942年)6月4日船に乗ってね、インドまで行ったの。・・・ ※息苦しそう
あの時ね、*グスッ* ※感極まって目頭をシワだらけになった手で覆い隠す。
*クスン、クスン* ※「あー」としか言えない日下部正樹 MC
今ね、その時のことを思い出したらね、*涙声* ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ※とても辛そう
・一緒にアンダマンに行った女性達と共に「話が違う」と強く抗議したが
部隊の大隊長に脅され、諦めるしかなかったという。
◇陳桃さん(92) 元慰安婦
アンダマンね、アァァァ・・・ (号泣) ※ハンカチで堪らず涙を覆う。
・現地では1日十数人から二十人以上の兵士を相手にしなければならなかったという。
◇陳桃さん(92) 元慰安婦
アンダマンでね、*ゲホッ* あの日本の兵隊を上げたの・・・
あそこで2年間ぐらいおったの。・・・
今もねぇ、・・・ 私あの、その時のことをねぇ、もう忘れる、忘れようと思ってるの。
・・・ だけどね、・・・ いつも心の中に *小声で* 泣いている・・・ ・・・ ・・・
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◆日本兵のための【慰安所】が海外に初めて設置されたのは
1930年代【中国】だったとされる。
※【慰安所】に行列する多くの日本兵。民家の一軒屋。
” の柵越しに群がる日本兵。南京の繁華街。
(【日中友好協会】村瀬守保氏が撮影した写真より。1938年。)
1941年
【太平洋戦争】が始まると、日本軍はシンガポールやフィリピン、ビルマなどに
攻めこみ、占領地には【慰安所】が次々と設置されていた。
・各地の【慰安所】には日本人女性の他、当時日本の植民地だった朝鮮や台湾の
女性が送り込まれた。 (「保護された朝鮮人慰安婦」1944年【中国・雲南】)
米国立公文書館
1942年6月
『台電第九三五号』 防衛研究所戦史研究センター所蔵
・台湾に駐屯する日本軍の参謀長が陸軍省宛に打った電報。(秘)
・ボルネオで慰安婦が不足しているため、台湾から20名の慰安婦を追加で派遣したい
と了承を求めている。
“- 「ボルネオ」ニ派遣セル特種慰 -
- 人員不足シ家業 -
- 二十名増加ノ要アリトシ左記 -
----------------
-慰安婦二十名増派諒 - ”
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◆元慰安婦の支援を行ってきた弁護士は、台湾では騙されて【慰安所】へ
送り込まれたケースがほとんどだと話す。
◇荘國明 弁護士
ほとんどの人は食堂や病院での炊事・洗濯の仕事だと言われたり、
病院の看護師の仕事だと言われたりして、騙されて海外に行きました。
海外ならより多くのお金を稼ぐことが出来て、家の経済状態を改善できる
のではないかと考え、みんな喜んで行ったのですが、実際には【慰安所】へ
行かされ、やらされた仕事は『慰安婦』でした。
◇陳桃さん(92) 元慰安婦 ◇日下部正樹 MC
「モモコ」。あの時から・・・ 本名はねぇ・・・ 「桃子」って言われてたんだ?
ウン?・・・ 頷く・・・ エェ。 「桃子」! お婆さんの名前。
日本政府からね、おばさん達にね、お詫びしてもらいいたい。*頷きながら*
・・・ 私の心の・・・ いつもね・・・ 覚えているよ。日本に虐められたこと。
あくまでも覚えている。
今もね、その時のことを思い出したらね、 ◇日下部正樹 MC
もう何も言えない。*口を拭う* ※何も答えられない。
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1945年8月
・陳さんは【台湾】へ帰り、叔父の家に戻った。しかし叔父は陳さんが『慰安婦』
だったことを知ると「汚い女」だと罵り、陳さんも荷物ごと家の外に放り出した
という。
・陳さんはその後【台湾】各地を転々としながら、住み込みで炊事の仕事をしたり
ヤシの実を売ったりして生きてきた。
・二度結婚したが子供はできず、男の子を一人養子にした。
1999年
・陳桃さんを含む台湾の9人の元慰安婦が、【日本政府】を相手取り、
『賠償』と『公式謝罪』を求める裁判を【東京地裁】に起こした。
しかし、
『東京地裁判決』
被害者個人が国家に直接賠償を請求する権利はない。
訴えを退け、
2005年
・原告敗訴が確定した。
◇荘國明 弁護士
とにかく台湾人の『慰安婦』は南洋から台湾に戻ってきた後も、
ほとんどの人が悲惨でした。経済的に苦しく、貧困に喘いでいました。
病に冒されて人も多かったです。
◇陳桃さん(92) 元慰安婦 ◇日下部正樹 MC
日本に帰ったらねぇ、*ゴホッン* ウン。
私たちのことをね、日本政府に話して下さい。
私たちはね、日本時代から今まで *手で顔を覆う*
・・・ *泣き顔* 昔から今までね、自分一人で、※何も答えられないでいる
・・・ 苦労してね、・・・ 生活してる。・・・ *ハァ*
1952年
『日華条約』の調印
日本の植民地だった台湾の請求権について、別途取り決めを行うことが明記された。
しかし、
1972年
『日中国交正常化』によって、
日本と台湾は国交関係を失い、その取り決めは行われないままとなっている。
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┣■『女性の人権』という視点で
【婦女救援基金會】
・台湾における慰安婦問題の中心的役割を果たしてきた。
スタッフのほとんどが女性。
・元慰安婦を支援するとともに、日本政府に対し賠償と公式謝罪を求めている。
◇鄭さん(31) 婦女救援基金会
・(お婆さん達の)洋服をクリーニングして番号をつけて整理しています。
お婆さん達が好んで身に付けていた物を残すことで、気持ちを残したいからです。
着ていた服は写真でも見ることが出来ます。
これは私たちとお婆さん達との“思い出”を、物を通して残す方法の一つです。
・『慰安婦問題』というと政治と結びつけて考える人が多いと思います。
でもそれを女性が“性暴力”という迫害を受けた問題として考えることは
できないでしょうか? もちろんできれば日本政府にお婆さん達に正式に
謝罪させて、お婆さん達が天国に行く前に“心の重荷”を下ろしてあげたいです。
◇日下部正樹 MC
『慰安婦』というものを知ってね、日本人に対する感情とか変化がありました?
見方とか?
◇彭馨さん(20) 大学生 ※ボランティアで参加
正直に言うと確かに高校生の時はありました。でも今は日本が嫌いではありません。
むしろ好きです。日本という国や民族に親近感を持っています。(笑顔)
日本と台湾は元々仲が良いし。
◇林韋慈さん(20) 大学生 ※ボランティアで参加
台湾は一般的にとても親日的です。植民地だった歴史があるので私たちのお爺さん、
お婆さんの世代には日本語を話す人が沢山います。この問題を知ったからといって
日本への思いは変わりません。
◇日下部正樹 MC
全くそういう“反日的”な雰囲気は皆さんの中に無いですね。
◇康淑華 執行長 婦女救援基金会
“反日感情”を抱きながらこの活動を進めてしまうと、
お婆さん達が人生で経験してきたことの意味や、社会との関係を狭めてしまう
可能性があります。
ですから私たちは『女性の人権』という視点でこの問題を考えています。
私たちの活動は、始めは確かに『民族主義』と一致していました。
しかし私たちは考えを改めました。現在のようなやり方で活動するように
なったことで、より多くの人達にこの問題を認識してもらい、支持してもらえる
ようになりました。
1995年
『アジア女性基金』が発足。※村山政権
韓国、台湾、フィリピンなどの元慰安婦に民間の募金による「償い金」や
総理大臣からの「お詫びの手紙」を渡す事業だった。
1995年6月
◇五十嵐広三 官房長官(当時)
我が国としてのシッカリした報いに対する、誠意を込めた取り組みというものを
進めて参りたいと。
・募金の総額は5億円を超え(約5億6千万円)、
<台湾の場合>
・元慰安婦への「償い金」200万円
・「医療・福祉支援金」 300万円 ※政府予算内から
・しかし【台湾】では多くの元慰安婦がこの「償い金」と「お詫びの手紙」を
受け取らなかった。
・【台湾政府】が現在までに認定した『元慰安婦』は58人だが、
『アジア女性基金』の「償い金」を受け取ったのは13人だけだった。
・陳桃さんもこの「償い金」を受け取っていないという。
◇康淑華 執行長 婦女救援基金会
『アジア女性基金』は、日本の“民間の募金”を「償い金」としたものです。
しかし私たちが主張してきたのは【日本政府】の「謝罪」と「賠償」です。
【日本政府】が“民間の募金”で解決しようとする態度は受け入れられませんし
誠意がないと感じています。
だから私たちは「償い金」の受け取りを拒否したのです。
◇日下部正樹 MC
台湾メディアや【婦女救援基金會】がお婆さん達に「受け取るな」と言ったとか
ですね、相当こう、うーん、批判的な声がね、日本には一部ですけどあります。
◇康淑華 執行長 婦女救援基金会
生き残ったお婆さんの中でも「償い金」に対する意見はそれぞれあったと思います。
そのため私たち基金会自身が募金活動を行って、自分たちの力で支援金を渡し、
【台湾政府】にも働きかけて、お婆さん達に相応のお金を支払いました。
・台湾の元慰安婦に対しては、【婦女救援基金會】と【台湾政府】から合わせて
1人当たり400万円が支払われ、今も生存者には毎月およそ6万円の生活支援金が
【台湾政府】から支給されている。
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┣■証言 台湾の元慰安婦 <其の2>
2015年2月
台湾
【婦女救援基金會】にて
◇日下部正樹 MC ◇陳連花さん(90) 元慰安婦
こんにちわ。(笑) こんにちわー。(笑)
日本から来ました日下部と言います。 *お辞儀*
今日はわざわざありがとうございました。*お辞儀*
東京から来ました。 東京から来たの? ああぁ。*頷く*
可愛いですね、帽子。カワイイ。 ありませんよ。(笑)
ありませんか? うふふ。(笑)
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◆連花さんが台湾の工場に努めていた19歳の時、
日本人が家に来て『看護女子』として働くようにしつこく迫ったという。
◇陳連花さん(90) 元慰安婦
私の養父は、
「この子はまだ若いし、専門知識もないので看護師なんて無理だ」と答えた。
でもその日本人は、
「兵士の頭や手足に包帯を巻く程度の仕事だから大丈夫」と言ったんだ。
・連花さんは『看護女子』として働くつもりで船でフィリピンのセブ島に向かった。
しかし現地の港に着くと、出迎えに来た日本軍の兵士の一人が
「本当の仕事は慰安婦」だと教えてくれた。
その兵士は陳連花さんと同じ台湾人だった。
◇陳連花さん(90) 元慰安婦
彼は軍の仕事で慰安婦を出迎えた時に私を見かけた。
私はその時まで何も知らなかったから、ずっと泣いていた。
彼は泣きっぱなしの私に同情してくれた。・・・ *グズン* ※感極まって泣き出す
・騙されたと知って泣いたが、逃げる術は無かったという。
◇陳連花さん(90) 元慰安婦
当時の台湾人はとても辛い存在だった。
日本人の言うことは絶対で、聞かなければ連行されてしまう。(泣)
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◇日下部正樹 MC ◇陳連花さん(90) 元慰安婦
これお婆さんでしょう?
これ和服着てるよ。わ・ふ・く。 はたち。
*フ~ン*、ハタチぐらい?*ふーん* はたち。*頷く* ※ふくよかで可愛い
とても綺麗ですね。 ネーありませんよ! 日本女性と変わらず
ふふふふふふ(笑)。いや綺麗ですよ。 きれいじゃ無いよ! 綺麗だと思う。
◇陳連花さん(90) 元慰安婦
日本人は私を騙して連れて行くべきじゃなかった。
本当のことを言うべきなのに、騙して行かせるなんて。
私はまだ19歳の若さだった。「なにもわからん」(日本語で答える)
・この和服は【慰安所】を経営していた日本人の妻が、慰安婦達のために注文して
作ったものだという。
連花さんはその【慰安所】では日本名で呼ばれていた。
◇陳連花さん(90) 元慰安婦 ◇日下部正樹 MC
なみ、「ナミコ」。 日本。えぇ。 日本の名前?
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1945年1月
◆フィリピンのセブ島に着いて暫くすると、アメリカ軍による攻撃が激しくなり
連花さん達『慰安婦』は日本兵とともに山に逃げた。
◇陳連花さん(90) 元慰安婦
海辺から *パーン* *パーン* *パーン* と山に砲撃があって
人が死ぬと埋めてまた逃げた。
兵隊さんが私たちを連れて山に逃げた。
食糧が無くなると兵隊さんが持って来てくれた。
逃げることで精一杯だった。
「あーね、戦争はダメだ!戦争はダメだ!*しかめっ面* 何も*台湾語*(怒)」
防空壕って知ってる? 体をこうして隠れて「食べるも、食べない」
めちゃくちゃだった。
「若い者、全然分からん。・・・ 昔のこと、若い者全然分からんよ。分からないよ。」
・連花さんはアメリカ軍の捕虜となり、収容所に入れられた。
そこで再会したのはセブ島に着いた時、『慰安婦』の仕事をすると教えてくれた
あの台湾人兵士だった。
◇陳連花さん(90) 元慰安婦
米軍の捕虜になったら彼が私を捜してくれた。私の名前「陳連花」を捜して
見つけてくれた。米軍は私たちの面会を認めてくれた。面会してから一緒になった。
・その台湾人兵士は戦争が終わった後、連花さんの夫となった。
◇日下部正樹 MC ◇陳連花さん(90) 元慰安婦
旦那さん、優しかったですか? 彼は私に同情していたからね。
夫は11歳か12歳年上で、
私がずっと泣いているのを見て
「可哀想だ」と同情して可愛がってくれた
卒業したの? 「私の旦那さん、京都の大学の」。えぇ。
「台湾。日本いて京都いた。」
*フウ~ン* (兵隊になる前に)「京都学校入った」
台湾に引き揚げた後は服を作る仕事をした
「着物作る。売って売って」商売繁盛だった。
日本人が引き揚げてので洋服が不足していた。
子供の服を作ってお金をいっぱい稼いだ。
・子供が出来なかった連花さんは、2人の養女を育てた。
◇日下部正樹 MC ◇陳連花さん(90) 元慰安婦
娘も孫も優しくしてくれます? 娘たちは良くしてくれるよ。
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◆【台湾政府】が認定した『元慰安婦』58人のうち、
生存者は連花さんを含めて僅か4人となった。
◇陳連花さん(90) 元慰安婦
私たちも歳を取った。生き残っているのは僅かだ。
・連花さんもまた日本の『アジア女性基金』からの「償い金」は
受け取らなかったという。
◇日下部正樹 MC ◇陳連花さん(90) 元慰安婦
日本人のことを憎んでますか? 憎んではいないよ。
ただ上の世代が解決しなかったことを
今の若い世代が解決して欲しい。
それが一番いいよ。
・連花さんは1980年代に流行した日本の演歌も歌える。
噂並木のぉ堂島 堂島すーずーめぇ~
こんなー私でー いらなぁあげるぅ
なーにもかーもぉ 抱いてください
あーああぁ、大ー阪ぁしぐぅれ~
◇日下部正樹 MC ◇陳連花さん(90) 元慰安婦
*パチパチパチパチ*(笑) 笑顔で 合ってる?
【婦女救援基金會】の面々も拍手
「あーぁ女の子」たちが戦場に駆り出され
頑張って働いて生きて戻った人は僅かなのに
哀れだとは思わないのか。
『賠償』も『ありがとう』の一言もなかった。
日本の若者は私たちに思いやりを持っていない
「ああぁ」。
残された時間も無いし、彼らから何かもらえる
なんて思ってないよ。
あのぉお会いできて嬉しかったです。 *お辞儀*
「謝謝」(シェーシェー)ありがとう。
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┗■スタジオにて
◇小林悠 キャスター
お婆さん達の涙を見ていますと70年経っても、何十年経っても
「時が苦しみを癒やす」ってことは無いのかなと思いました。 *しみじみ*
◇日下部正樹 MC
・本当にね、お婆さん達に話を聞く時間ってほとんど残されてなくてね、*ススリ声*
私たちが取材をしたのは今年2015年の2月なんですけど、その時には台湾には
5人の元慰安婦のお婆さん達がいたんですけれども、その内1人が亡くなって
今は4人です。
・最初に紹介した桃お婆さんについても、やはり一人暮らしが困難になって
最近施設に入ったそうです。
◇金平茂紀 キャスター
・『慰安婦の問題』ってのはね、最近他のメディアではなかなか取り上げなく
なっちゃっているのだけれど、非常に重要な問題だと。特に今年は戦後70年
ですしね。
・その一部の政治家が言っているように『慰安婦』っていうのは強制性が無かった
ようなことを言っている人達がですね、今日ご紹介された陳桃さんとかね、
陳連花さんの今回のあの証言というのをどういう気持ちで聞くんだろうかと
思いながら僕は見てたんですけれども、
・僕はあのぉ【日本政府】っていうのは現在生き残っている、たった4人しか
生き残っていない台湾人の元慰安婦の人達には「きちんと謝るべきだ」と
僕は思いますね。
◇日下部正樹 MC
・あのこの取材を始めたキッカケですけれども、今、金平さん言ったように
日本ではひたすら「強制連行」の有無ばかり焦点が当てられている。あと
韓国ではあまりにも「政治問題化」し過ぎてですね、本当のお婆さんの思いとか
言いたいことがなかなか見えてこない。さらに『慰安婦問題の本質』って
いうのがよく分からなくなってしまっている。
そこで原点に戻って台湾のお婆さん達の生の声を聞いたんですけれども、
・あともう一つ印象的だったのはね、お婆さんをサポートしている若い女性達
ですね。あのぉかつてこういう組織(?)は、非常に政治的というか闘争的で
あったのだけれども、とにかく若い女性達がお婆さんから共にいることでですね、
女性の尊厳とか生き方をですね、一緒に考え・学ぼうとしている。
そういった姿が非常に印象的でした。
◇感想‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
┣・“性暴力”問題という腫れ物に触れる話なので、私などが語るべきことでは
ないのかもしれないが、映像を通じてお婆さん達の証言に偽り性は感じられ
なかったし、確かに国としての謝罪を提訴したのに民間の慈悲というのでは
大変失礼な話だと思う。例えは悪いが『天竜人』みたいじゃないか日本人は。
そう例えると現政権の暴言はまさにピッタリと当てはまるよなぁ。。。
┣・陳連花さん(90)が語った
「ただ上の世代が解決しなかったことを今の若い世代が解決して欲しい。」
せめてこれだけは実現したいものです。つまり「平和な世の中」ということ。
┗・けれど残念ながら浅はかな若者たちは、良くも悪くも感化されやすい。
「最悪=戦争=行ったら死ぬ・身内が悲しむ」という図式くらいは思い浮かべて
欲しい。仮に自分は戦場へ出向かなくとも「恨みを買う」ことは覚えとけ!
この世の中で一番恐ろしいのは、生きている人間の“怨念”だと私は思う。