阿久悠の日記“昭和歌謡の巨人”知られざる苦悩
2016/07/29(金)<阿久悠の日記“昭和歌謡の巨人”知られざる苦悩>
【NHKニュースウオッチ9】 http://www9.nhk.or.jp/nw9/
*敬称略しています。 また長文ゆえ誤字脱字が多いです。ご了承ください。
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┏┓ <阿久悠の日記“昭和歌謡の巨人”知られざる苦悩>
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かつて一世を風靡した“阿久悠”
亡くなるまでの27年間に渡って書き続けていた『日記』約1万頁にも及ぶ-
昭和の歌謡曲で数々のヒットを生み出してきた作詞家
亡くなってまもなく「9年」。『日記』の全容が明らかとなった。
類い希なヒットメーカーが、人知れず抱えていた“苦悩”が見えてきた-
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昭和歌謡の巨人
┣■苦悩の末 あの名曲が
『阿久悠の日記』
・1981年1月1日の元日から始まる。
例年通りヒルトンホテルで新年。
「雨の慕情」で五回目のレコード大賞受賞。
明け方4時近くまで飲み語る。
晴れのち薄ぐもり。
初詣は東名高速からの富士。
- 残雪あり。
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◆昭和歌謡界
・誰よりも多くのヒット曲を生み出した“阿久悠”
時代は『高度経済成長期』。“阿久悠の歌”はことごとくヒットする-
1971年
『第22回紅白歌合戦』
♪「また遭う日まで」尾崎紀世彦
作詞:阿久悠
1972年
『第23回紅白歌合戦』
♪「どうにもとまらない」山本リンダ
作詞:阿久悠
1977年
♪「UFO」ピンク・レディー ※阿久悠が生んだスーパースター。
作詞:阿久悠 ミリオンセラーを連発した。
1980年
『第31回紅白歌合戦』
♪「雨の慕情」八代亜紀
作詞:阿久悠
・“阿久悠”
その生涯に作詞した歌謡曲は「5,000曲」と言われるが、しかし
1980年代以降“大ヒット”は次第に影を潜める-
・1980年代当時、アイドルやシンガーソングライターが次々と登場。
時代が求める歌も変わっていった-
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『阿久悠の日記』
その頃に書き始めたのが日記だった。 ※1981年1月1日から始まる。
“時代の風”を掴もうと、日々のニュースを記している。
・気になるニュースは「新聞の切り抜き」も。
☆『グリコ・森永事件』のグループの一人の似顔絵が公開される。
24時間で174本の情報。 ※似顔絵を切り抜いて貼っている。
☆「隣の女とは寝るものじゃない」(フランスの格言か?)
☆「ドルさらに急落」今日も昨日に比べて47銭円高の237円63銭。
☆アフリカの飢餓救済に納豆をと云う提案。がぜん納豆が注目されて-
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Q.日記はどう創作に生かされたのか?
A.
・生前に“阿久悠”本人が語る映像が残されていた。
1996年放送
【オトナの遊び時間】
◇阿久悠
『日記』ってどういう役割を果たすかなと思って時に、あのぉこう
僕を怠けさせないための、神経が眠らないために、あるいは高ぶったままで
いられるための材料にしようと。アンテナが立ってるかってことが重要だって
ことは僕は常々言っていましたから-
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『阿久悠の日記』
・しかし1984年の暮れから「苦しい心情」を示す記述が増え始めた-
-。妙に生あたたかく気持-
精神状態がひどく悪い。
居直ることと、割り切ることと、対することをいつの間にか忘れてしまったようで
自己嫌悪にかられる。
☆今日は何も記したくない日。
「逆境を好機に変える天才」という言葉を信じる
・「逆境を好機に変える-」という言葉は、その後何度も『日記』に登場する。
“阿久悠”47歳の時だった-
その言葉は死後見つかったメモにも残されていた。
◇長男 深田太郎さん
父が書いたメモですね。 ※小さく雑用のメモ用紙
「逆境を
好機に変える
天才 」 ※ゴシック体でキレイに書いている
・家族に悩みや愚痴を打ち明けることがなかったという父“阿久悠”。
日記にも同じ言葉が何度も記されていたことが意外だった-
◇長男 深田太郎さん
「逆境を好機に変える天才」という言葉を信じるのみ、やっぱり祈ってますよね。
・・・ 阿久悠の「祈りの言葉」なのかもしれませんね、コレは-
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東京都千代田区
【明治大学】
『阿久悠の日記』は“昭和の文化史”を知る上でも貴重な資料として、
専門家が注目をしている。
◇長男 深田太郎さん
・父“阿久悠”の知られざる素顔を知りたいと『日記の研究会』に参加している。
阿久悠日記 80年代
【①「逆境」とは何か?なぜ「自己嫌悪」に?】
1984年、自伝的小説『瀬戸内少年野球団』が映画化されて、6月に全国ロードショー
になりました。立ち見が出るほどのヒットとなり、夏には、湿疹に悩まされながらも
成果を喜ぶ記述があります。しかし12月から、精神的に不安定だと吐露する記述が
現れます。
1984年12月12日
「精神状態がひどく悪い。居直ること、割り切ること、対することをいつの間にか
忘れてしまったようで、少々自己嫌悪にかられる」
1984年12月22日
「度胸について考える。A型について考える。自己嫌悪の日々。
この年齢になって情けない」
1984年12月26日
「今日は何も話したくない。『逆境を好機に変える天才』と云う言葉を信じるのみ」
1985年 1月12日
「しっかりしたい。いや、しっかりしろと怒鳴りたいくらいコンディションが悪い。
(中略)もう一度、苦境を好機に変える天才と暗示をかけよう」
1985年 1月18日
「“苦境を好機に変える天才”をお題目のように唱え、また信じ込んではいるが、
スカッと晴れ上がる状態にならない」
【②「時代おくれ」のモデルは?生まれたきっかけは?】
1985年1月、「苦境を好機に変える天才」という記述の後も、-
-伺えます。一方で、引退をにおわせる記述も
-このモデル、そして歌が生まれ-
◇吉田悦志 副学長 明治大学
阿久悠さんにとっての「逆境」というのは一体何だろうか?-
◇村松玄大さん 阿久悠記念館 明治大学
「逆境」と聞くと具体的に何かネガティブな事実があって、その状態を越えるために
何とか好機に変えるというイメージがありますけれども、そんなに具体的なものが
あったような感じもしないんですよ-
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◆苦悩の末-
・ヒット曲が出ない中“阿久悠”は『作詞家』から『作家』に
活動の軸足を移していった。
1984年の夏
『瀬戸内少年野球団』監督:篠田正浩/原作:阿久悠 (c)YOUの会
自身の少年時代を描いた自伝的小説(同タイトル)が映画化されている。
※主演:夏目雅子。キレイでしたねぇ。当時かなり好感度の高かった作品かと。
◇女先生 役:夏目雅子
大人になっても、覚えていてね。(涙目)
・しかし、それでも“阿久悠”は満足できなかった。
『日記』には「猛烈に作詞をする」と記されている。
ヒット曲を出すことにこだわり続けていた。
・かつて“阿久悠”と仕事を共にした
◇三田完 作家
・当時の“阿久悠”の心境をこう分析する-
まあ「新しいヒット(曲)」を作っていないと、満たされない気持ちはあるで
しょうね。 *頬を付きながら頷く*
・ヒット曲が書けないという逆境。それでも作詞を続け、
『日記』には歌のアイデアが幾つも残っていた。
●99 POPS
・化け猫乱気流 ・welcomeCAT ・男子KOKO女子KOKO
・ITCH&ETCH ・サムライ・ララバイ ・渚のゴムマリ娘
・オットナ二枚割引ケッコー ・迷信深い猫 ・EGG
・DRANK DRIVING ・verry nice come to!
・深夜のマーケット ・ROLLICKING ・ギブミーしてんか!
・さよならはGOOD-BYEでええんか ・Once upon a time
・桃色淑女(ピンクレディ) ・遊興少年(プレイボーイ)
・亜米利加??(ジャズ) ・アコギ ・you are my 美人 shine
●「北国神話」 }森進一
「春怨」 }
「春子夏子秋子冬子」 }
「大地の華の詩」 }
●「ロマンスはこれからだ」 ●「長いつきあい」 }フランク永井
●「思い出さないで」 ●「ひとりで乾杯」 }
●「カフェ・バー」 ●「いないいないバー」●「あの日」}
●「夜のブランコ」 ●「哀愁酒場」●「はんぶん哀愁」 }
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◆当時“バブル”へと日本が向かう中、“阿久悠”は-
・高級なブランド品がステイタスとなり、贅沢な暮らしが広がり始めていた。
・「逆境」の中“阿久悠”は時代に背を向ける様な歌を書き続けた-
1991年
『第42回紅白歌合戦』
♪「時代おくれ」河島英五
作詞:阿久悠
浮き足だった時代に、敢えて不器用で控えめな男を描いた。
「 妻には涙を-見せないで~ 子どもに愚痴を-聞かせずに~
男の嘆きは-ほろ酔いで~ 酒場の隅に-置いて行く~
目立たぬように-、はしゃがぬように-
似合わぬことは-、無理をせず-
人の心を-、見つめつづける-
時代おくれの-、男になりたい- 」
※こちらも作詞? ♪「プラットホームで15分」中村有香
日記に一緒に綴られていた 作詞:阿久悠
・「逆境を好機に変える天才」と祈り続けた作詞家“阿久悠”。
この曲が“最後の大ヒット”となった。
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◆その後“バブル”は崩壊、日本は“長い低迷の時代”を迎えた-
・そして2007年
“阿久悠”はガンで亡くなる半年前、一遍の壮絶な詩を日記に書き残していた。
死ぬな まだ死ぬな
まだ まだ 求められている
それに応える責任がある
たっぷりと知らしめることだ
体が弱っても
頭と右手が元気ならいい
飽きるな
生きることに飽きるな
書けば誰かが喜ぶ
書けば道が出来る
道はつづく
それを生とどけよ(?)
・それから9年2016年
【東京・新橋】
今も“阿久悠”の歌は多くの人に愛されている。
「知ってて有名で、気付いたらいい歌は阿久悠さんの曲だったなーという
感じです。*頷く*」
「後から聴いてもやっぱり響いてくるような、ちょっと深みがありますよね」
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◆「歌謡曲とは何か?」 生前の阿久悠の言葉でもある。
【歌謡曲の時代 ~歌もよう人もよう】
歌謡曲は時代を食って色づき育つ。
(中略)
歌謡曲のない時代は不幸な時代である。
歌謡曲よ、目を覚ませ。
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┗■スタジオにて
◆“逆境を好機に変える天才”
◇河野憲治 MC
ウーン、懐かしい曲ばかりでしたね。(笑)
阿久悠さんというとね、当時こう「なんでこうヒット曲ばかり書けるのかな?」と
スゴく不思議だったんですが、むしろこれほどのね“苦悩を抱えている”とは全然
知らなかったですね。
◇田中泉 キャスター
私にとっては阿久悠さん自身のことはほとんど知らなかったんですけれども、
今こうして聴いてみますと、知らない曲の方が少ないくらいで、本当にスゴイ
作詞家さんだったんだなーと、思いましたねぇ。
◇河野憲治 MC
そう。あのぉ時代をね、追い掛けた阿久悠さんにとって結局今ありましたけれども
「逆境を好機に変えたのが“時代おくれ”という曲だった」というのはね、皮肉な話
だったと思うんですけれども、そのやっぱり日記を通して時代を追いかけていく、
見つめていくっていう姿はスゴく教えられるところが多くてね、
本当にすごい作詞家だったと思います。
◇感想‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
┣・脅威の“ヒット曲メーカー”という印象の方が強い作詞家・阿久悠ですが、巨人も
時代の流れに取り残されて苦労する場面があったことが日記から分かっただけでも
同じ人間なのだなということが分かり、ちょっと安心できたというか、まあ昭和の
人間なら誰もが感じる“哀愁”なんでしょうね。(苦笑) 作家として本腰を入れて
いたならば、どれだけの作品を書いていたのかという点でも興味深いです。けれど
確かに『瀬戸内少年野球団』は賛否両論分かれる・決して名作ではないだけにまあ
早々と作家業は見切ったのかもしれませんね。ウン、出演者に食われた作品だし。
┣・私自身も昔はよく「手帳」に気になったことは何でも書いていた方なので懐かしく
メモを取らせて頂きました。真面目で貪欲だとしょーもないことでもね、記したり
するんですよ。亡くなってからこうして他人に覗き見られるってのは、恥ずかしい
ものがあります。(苦笑)
┗・作詞家は印税が入ってガッポガッポだって話も聞きますけれど、案外借金を抱えて
いたりとか、このように名誉・プライドを保つのに苦労が絶えないのかもしれません
一発狙いで、老後のことも計算しているような奴ではヒット曲は作れませんか?(笑)
「5,000曲」か。これだけ貪れば“ネタ切れ”だったという説も出そうだけどね。
作品を生み出す過程は巨人とあまり変わりがないことが知れただけでも嬉しいです。
(^^ゞ