奥底の悲しみ ~戦後70年、引揚げ者の記憶~
2016/02/22(月)<奥底の悲しみ ~戦後70年、引揚げ者の記憶~ >
【NNNドキュメント】 http://www.ntv.co.jp/document/
※前回で当ブログ1,000回UP達成しました。大きな一区切りとなりました。
1,001回となる今回は奥深いドキュメンタリー作品を掲載することにします。
『平成27年民放連賞報道番組部門の最優秀賞』
『第11回日本放送文化大賞のグランプリ』
*敬称略しています。 また長文ゆえ誤字脱字が多いです。ご了承ください。
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┏┓特集#2312 <奥底の悲しみ ~戦後70年、引揚げ者の記憶~ >
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「当時向こうではどうしようもなかった?」
「どうしようもなかった。
それが戦争に負けたっていうことでしょ?」
71年前、祖国日本が負けると大陸に暮らしていた女性達には
「どうしようもないこと」が待っていた。
身にはボロ布をまとい、足に履き物はなく、
見るも無惨な姿で日本へ引き揚げてきた。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
山口県長門市
【仙崎港】
この小さな港に全国で5番目に多い「41万人」が引揚げた。
※『海外引揚げ上陸跡地』という白い石碑が建てられている。
・当時国が残した資料
『仙崎引揚援護局史』
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~
8 復員手続-------------------
(一)支局設置などの概況
(二)復員状況-------------------
9 荷物輸送の状況----------------
10 人員輸送の状況
11 引揚相談状況-----------------
六 検疫
1 検疫所設置の沿革---------------六八
2 検疫作業-------------------六九
◇引揚朝鮮人伝染病発生状況表---------七0
◇引揚邦人検疫実施状況表-----------七一
◇帰国鮮人検疫実施状況表
◇逆密航及強制送還鮮人検疫実施状況表-----七二
◇港地域捕?及細菌検査表
◇引揚邦人検疫所?実施状況表---------七三
◇密航鮮人検疫所?実施状況表
◇密航鮮人伝染病発生状況表----------七四
◇引揚邦人伝染病発生状況表----------七五
七 医療関係
1 応急医療の概要----------------七六
2 ◇患者病名の月次統計-------------
◇患者病名の日次統計-------------
3 ◇引揚地方別患者数統計
◇特殊婦人救護状況調査表----------- ※
4 国立病院その他病院利用状況---------
◇国立病院転送月別表-------------
八 物資
1 物資調達の概要
(イ)食糧関係資材の調達--------------
(ロ)その他資材の調達---------------
◇被服類月別需給表---------------
◇木炭需給表------------------
◇薪需給表-------------------
◇船内積込物資(日用品)状況表---------
◇月別食糧需給????-------------
九 経理の一般状況
◇昭和二十年度??状況--------------
◇昭和二十一年度??状況
十 渉外事務
1 現地 の概要-----------------
2 主要
十一 関係 交渉--------------------
(1)山口県?
(2)広島??届
(3)山口上陸地支局仙崎出張所
(4)??関係
(5)警察関係
(6)逓信関係
(7)海運局
(8)掃海支部
(9)仙崎町及深川町役場
十二 関係諸団体との連絡交渉--------------
(一)船舶運営会仙崎出張所
(二)日本交通公社引揚邦人旅行案内所
(三)恩賜財団同胞援護会山口県支部仙崎出張所
~
・「検疫」「医療」「物資」などについて書かれたその中に“特殊婦人”という
聞き慣れない言葉を見つけた。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
“特殊婦人”とは
・北朝鮮や満州からの引揚げ婦女子には現地で暴行を受けた結果、
身体に異常をきたしている者がおり、国はそんな女性達を「特殊婦人」と表現した。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
【仙崎港】 ┏━┓
┃税┃
┃ ┃ ┃ ┣━━━━┓ ┃関┃
┃ 食 ┃ ┃ ┃第二 ┃ ┃援┃
┃ 品 ┃ ┃ ┃復員関係┃ ┃護┃
┃ 給 ┃ ┃ ↑ ┗━━━━┫ ┃金┃
┃ 興 ┃ ┃ ↑ ┃ ┃支┃
┃ 所 ┃ ┃ ↑ ┃ ┃給┃ ┏━━━
┏━┓ ┣━━━━━━┫ ┃ ┃ ┃所┃ ┃相談所
┃便┃ ┃??事務所 ┃ ┃ ┃ ┗━┛ ┗━━━
┃ ┃ ┣━━━━━━┫ ┃ ┏━━━┻━┓
┃所┃ ┃第一相談所 ┃ ┃ ↑ ┃??交換所┃
┗━┛ ┣━━━━━━┫ ┃ ↑ ┗━┓─── ┏━┳━━
┃ ┃ ↑ ┃婦人 相談所 ┃控┃医療
┃ ┃ ┃特殊 ┃所┃ 室
┃ ┗━━━━ ┣━━━━━━━┻━┻━━
┃ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ ┃ │ 予 ┌──┐ D
┃ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ ┃種│ 防 └──┘ D
┃ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ ┃ │ 注 ┌──┐ T
┃ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ ┃痘│ 射 └──┘ 散
┃ └─┘ └─┘ └─┘ └─┘ └─┘ ┃ │ 場 ┌──┐ 布
┃ ↑ ┃場│ └──┘ 所
┃─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ┗┳━━━━━━━━━━━
┃ ↑ ┗
┃ ↑ ←←←←←
┃ ↑ ┏
┃ ┃ 検査場入り口 ←←←
┃ ┃
・港には“特殊婦人”達の話が聞けるよう相談所が設けられた。『婦人特殊相談所』
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<特殊婦人救護状況調査表>
四月 五月 六月 七月
方面別 :北鮮 満州 北鮮 満州 北鮮 満州 北鮮 満州
婦人総数:3944 4526 2549 965 272 4603
相談者数: 22 1810 2116 448 529 4367
患者数 : 5 12 227 41 67 404
妊娠 : 2 4 6 1 14 80
流産 : 2 4 5 1 4 6
性病 : 7 88 12 32 231
?? : 3 1 61 22 9 36
・北朝鮮と満州から上陸する“特殊婦人”の数を月ごとに記録していた。
暴行を受けた女性達の相談に乗り、把握しようとしたのは「妊娠」や「性病」。
相談を受けた女性の5%、500人以上が「妊娠」または「性病」を患っていた
と記録されている。
それが「戦争に負ける」ということ。
◇80代の男性
「マダムダワイ、マダムダワイ」言うてね、 ※マダムダワイ=女を出せ
「女くれ、女くれ」言うてさ-
◇80代の女性
「マダムダワイ~」言うて入ってくるんですよ。*嫌々*
◇80代の女性
「マダムダワイ、マダムダワイ」って、、、来ますもんね。
◇80代の男性
*ババァーン!*って空に向けて(撃ち)脅かすんですよね。
逆らうこと出来んかったのよ。(苦)(悲)
◇70代後半の女性
お母さんの目の前で銃を突き付けられて、娘が犯されるっていうのは、
どんな気持ちだと思いますか?・・・ (涙目)
・「戦争の終わり」は女性達にとって“新たな戦いの始まり”だった。
引揚げ者の記憶の奥底を見つめた-
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┣■引揚げ者へのインタビュー(1)
北朝鮮から門司に引揚げ
◇深澤幸代さん(89)
・19歳の時、北朝鮮から引揚げた。
向こうで覚えた『朝鮮漬け』は今も毎年作る。
・・ ・・
北朝鮮は「寒い」って言うか「痛い」の。
私らの教室にね、ストーブを三つ置いとーのよ。
そいで学校に行くまでに、まつげが凍りよんのよ。(苦笑)
・深澤さんは北朝鮮の南部【平壌】に程近い【鎮南浦】で育った。
【鎮南浦】(現:南浦特別市)
敗戦から間もなく、街の様子は一変する。 ※住居が密集しており、立派な地方都市
昭和20年8月9日~
『ソ連軍満州侵攻』
ソ連軍が北朝鮮にも押し寄せてきた。
・深澤さんの両親は年頃の娘である幸代さん(当時18歳)を2ヵ月間、天井裏に隠した。
男のように頭を剃り、食料は天井の隙間から入れてもらった。寝るのは細い柱の上。
用を足すのは壺の中だった-
怖いとかなんとか、もう通り越してね。どーしたら生きられるだろうかと・・・
両親がいるから「どうにかして生きにゃならん」と思うでしょう。
それがゲルマンと戦ってきたというもん(ソ連兵)だから、一番“荒い”のが来たの
それを第一に・何を目的にするかって「女性」なんです。。。
そうすると私達が一番ヒドイ目に遭っているわけ。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
国会議事録
『昭和24年10月衆議院特別委員会』
・第5回国会衆議院
『海外同胞引揚に関する特別委員会議録第十一号・第十二号』
現地で日本人女性に被害を及ぼすソ連兵に関する記述がある。
~ ころの自動機関銃は、りつぱなものを持っておった。よくもソ連はこれまで
兵隊をひつぱって来た、実は偉いもんだという感じを抱きました。従つてその
兵隊は粗野であります。一面野獣的性格を所有しております。それは当時
シベリアにおけるところの木こり、あるいは囚人をかり集めて来たといううわさ
でございます。これは白城子の方面から、蒙古の方面から入って来たところの
いわゆる戦車部隊であります。当時イワノフ中将というのが司令官になりまして
そこに司令部を設置いたしまして、そうしてもとの日本の各警察の所在地に
地区司令部というものを置いて、治安を維持したのであります。
そして軍政を布いたのでありますが、そのときは中国側に対してどういうことを
やつたかと言うと、イワノフ指令課は軍令をもつて、当時日本の当時時代の
商工会議所の会頭の遅雲祥という ~
・「ソ連兵は粗野で、一面野獣的な性格を所有し、
シベリアの囚人を駆り集めて組織されていた」。
◇深澤幸代さん(89)
ホントやられた人沢山おる。小さい子供ね、1歳2歳なんかの子供持ってる親、
どこに入れても(幼子の)声がするからダメじゃないですか。友達も沢山イタズラ
されている。*大きく頷く* ・・・ 死んだ人も沢山いる。
◇取材記者 男性
どうしようもない。*頷く* 当時やっぱり向こうではどうしようもなかった?
どうしようもない。*頷く*(涙目)
・・・ それが「戦争に負けた」っていう、、いうことでしょ?
日本人が手ぇ出すこと全然できないもの。逃げることが一生懸命。
どこが手助けできますか? 日本から来ること全然無いじゃない。。。
だから私達も、クラスの中で3分の1は帰ってないから、
どういう死に方してるか分かりません。
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【大日本帝国】
幾つもの国や地域を統治下に置き、領土と勢力圏を広げていった。
「新天地での成功」を夢見て、多くの人々が海外へと渡った。
・【満州】などには国策の開拓団として「27万人」が移り住んだ。
※最大行政統治・軍事勢力圏
本土隣接諸島、太平洋諸島、千島・樺太、韓国、朝鮮民主主義人民共和国、
旧満州、中国(一部)、香港、台湾、フィリピン、ベトナム、
東南アジア(タイは除く)、インドネシア、南東アジア、ニュージーランド
そして「敗戦」。
・海外に取り残された日本人、その数「660万人」。
軍人は武器を捨て、一般人は現地で築いた財産を捨て、皆一斉に本土を目指した。
・しかしソ連軍の占領下にあった【満州】と【北朝鮮】からの引揚げは
数ヵ月から1年以上、大幅に遅れた。
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┣■引揚げ者へのインタビュー(2)
去年2015年4月
山口放送情報番組
【熱血テレビ】
◇男性司会者
山口放送では今年2015年に入って「引揚げ」に関する特集を放送しています。
このように多くの方々から貴重な体験記をお寄せ頂いております。
本当にありがとうございます。
・「引揚げの体験を聞かせて欲しい」と山口県内の視聴者に呼び掛けたところ、
多くの反響があった。
これら寄せられた手記を元に取材を進めた-
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
【山口県山口市】
北朝鮮から佐世保に引揚げ
◇小林茂さん(81)
敗戦から1年後に北朝鮮から引揚げた。
「あぁ、これで戦争に負けたんだな」っていうのがハッキリね、一人一人の胸にね
叩き付けられたっていうかね・・・
・小林さんの手記は90頁も及ぶ。
「戦後80年にはもう生きていないかもしれない」と前々から少しずつ書き進め、
地図などの資料も合わせて作ったという。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
<小林さんの手記より>
~
奥さんは、リヤカーの横から、何時でもこちらを見つめ涙を拭いた。
奥さんに会うのは、これが最後だと、子供心に直感した。
周奥さん(さいなら)と、心の中で叫んだ。
奥さんが(誰にも言うな)と、教えてくれた数々の情報は、墓場まで持っていこう
と決心し、今まで親、兄姉妹、友達にも話したことはなかった。
また話そうとも思わなかった。
この文章を書くと決心した時、周さんのことを書こうと思ったのは何故だろうか。
以前、周さん兄妹は、満州の両親に呼ばれ帰郷したことがあった。
兄と妹のどちらが満州の農場を引き継ぐのか、母親との話し合いがあったと聞いた。
その折、見聞きしたことを??に帰ってきて、周農場で働いている私に、
何日もかけて話してくれた。それは、一日も早く安全に日本に帰国できることを
願って、心から話してくれたのであろう。
スケッチの上手だった周奥さんは、満州での悲惨な出来事を絵にしてくれた。
戦争や争いは誰もが、人間の(さが)に振り回され、本来の人間らしさが一瞬にして
失われ、悪魔の心が宿るのは何故なんだろう・・・ ・・・ 。
ソ連軍と中共軍の侵攻と、満州奥地から引き揚げが重なった人々は、
特に悲惨だったと聞かされた。
ソ連兵や中共軍、また現地の中国人は、無抵抗な日本人に対し、略奪と暴行など
悪行の限りを尽くした。
引き揚げの集団は離れ離れにされ、特にソ連兵は、日本人の婦女子に対し見境なく
襲った。満州や北朝鮮に侵攻したソ連兵は、囚人部隊(文字通り監獄所の囚人を
解放し編成された兵隊)の、乱暴狼藉が当たり前であった。
殆どのソ連兵は、銃口を口先に近づけ、強姦や輪姦が何時間も続いた。反抗する
者は即座に射殺である。多くの民衆の前で平気で自分の色欲に執念を燃やした。
~
◇小林茂さん(81)
これあの「父が転勤したコース」なんですけどね、 ※北朝鮮の地図を広げながら
ここでね【球場】って所なんですけどね、 ※8ヵ所目の転勤地の様子
ここで「敗戦」になったんです。
・敗戦当時、小林さんは11歳。父親を戦地へ送り出し、家の中は母と子供達だけだった
・敗戦後すぐに街はソ連軍に占領され、日本人は長屋に押し込まれた。
その後1年間、毎日のようにそこへやって来たソ連兵。
「マダムダワイ」女を出せ!と大声で喚き、発砲した。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
<小林さんの手記より>
~
終戦の日から、昭和21年8月の引き揚げ-
(ソ連兵)が「マダムダワイ、マダムダワイ(女を出せ、女を出せ)」-
ら、マンドリン銃をダダダダ・・・ と発砲しながら-
して、女性を捕獲すると、暴行や強姦を犯し、-
は、輪姦をしたりと、悪行の限りを尽くすので-
に続くのであった。
諸中会長は、皆が犠牲になるより、特定な者に-
◇小林茂さん(81)
抵抗するな。撃ち殺すんですよ。もう『マンドリン』いうてこれくらいの
(軽く両手を広げる)小銃にこう弾が入ったマンドリン銃って言うたんですけどね
それで*ガァン!*と撃つんですよ。そういったのをね、もう見てるんですよ。
コッチも裸にされるんですよね。そうして後ろ向けっていうような恰好なんですよね
だからねぇ“犬が盛っている”ような感じのね。まあ言えば男女間のSEXをしてる
んですよ。口の中にね、銃を持っとるんですよ。(口に銃口を入れられている)
それで周りに男性が1人か2人おるんですよ。次の人が待っとるの。
それで強姦しよるんですよ。 ※輪姦
それで「コンチクショウ!」身体が開かんだったら(抵抗するなら)*ポンッ!*と
撃つんですよ、目の前で。そしてそれを引きつり出して次の人を、連れて来る。
もうそんなこと考えられません、今の状況の中で。
◇取材記者 男性
そうです。*大きく頷く* 昼の日中でもですか?
雪の中でもそうです、道路の中でもそうです。(涙目)
・恐怖と教義が混ざり合う心で、始めは遠くから見ていたという11歳の小林さん。
しかし幾度もその場を目にする内に、自分に出来る精一杯のことをするようになった
ソ連兵が去った後、放心状態で動けない女性のために服を拾い、湯を沸かし、
身体を拭き- そんな11歳の記憶を子や孫達にいつか知って欲しいと手記にした。
書き終えて肩の荷が下りたという。
◇小林茂さん(81)
重かったですねー。それを抱え取るっちゅうことが・・・ だからねぇ、
家族にも言えんし、今初めて話すんですけどね、*大きく息を吸い込む*
家族にも言えん“秘密”っちゅうことはないけどね。自分のこの“負の世界”って
いうのをね、抱え取るっていうのは本ッ当に!苦しかったですね。・・・ ・・・ (涙目)
まさかこういう風にして、読んで下さるとは夢にも思わんで、
ただ「原稿募集してます」っちゅうことで出したんですけどねぇ。
だから今考えてみたら「幸せだなぁ」ちゅうて下さる方がおられるっていうことは
幸せやったぁ!と思うてね。*グスン* ※堪えきれずメガネを外して涙を拭いた
「ゴメンナサイ」 *グスン*
だから子供も「戦争の後の辛さ」っていうのはあったんですけどねぇ。
子供を持っとる親はまだ辛かったと思うんですよ。
無事に連れて帰らにゃいけんしね。*グスン* ・・・
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┣『鎮南浦同窓会』(1)
北朝鮮から門司に引揚げ
◇深澤幸代さん(89)
性暴力から逃れるために2ヵ月間、天井裏に隠れた深澤さんは、
女学校時代を過ごした北朝鮮の街【鎮南浦】からの引揚げ者と今も交流を続けている
皆、当時の記憶は鮮明に残っている-
『鎮南浦同窓会』
8人掛けの丸いテーブルの上には「松」「梅」「福」といった札が置かれていた。
当時のクラス名だろうか? 画面からは5テーブル、40名以上は参加された様子。
◇80代の男性
「マダムダワイ、マダムダワイ」言うてね、 ※マダムダワイ=女を出せ
「女くれ、女くれ」言うてさ-
◇80代の女性
「マダムダワイ、マダムダワイ」って、、、来ますもんね。
私達は畳を上げて、床下に逃げ・隠れました。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
【鎮南浦】(現:南浦特別市)
ソ連兵に怯える日々。『鎮南浦の日本人会』の幹部達は、悩んだ挙げ句、
“特定の職業の女性達”に犠牲になってもらうことに決めたという。
◇80代の男性
一般の婦女子が危険な目に遭うと。
「あなた方、スマンけれども何とかそういう人達のこと考えて、
助けてやってくれないか」
ということで、そういうお姉さん達に頼んだわけ!
◇80代の女性
やっぱりその“水商売の方”がおられてぇ。あのなんか皆、あのぉ
どうなんでしょうねぇ。皆からお金を集めてね「申し訳ないけどぉ」言って
まあ素人の娘がね、そういう目に遭うのは可哀想だからっていうようなぁ・・・
・敗戦から1年後、集団で街を脱出。
しかし引揚げる道中にも「女性を要求する」ソ連兵が待ち伏せていたという。
その時-
◇80代の女性
これ言っていいかどうか、未だに胸が痛みますけど。女の人4人選び出してね
ロスケ(ソ連兵)に与えたんですよ。*瞳孔が開く*
そしてその間に、私達は移動しました。
自分だけ今幸せでおれるってことのはねぇ・・・
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┣■引揚げ者へのインタビュー(2)
満州から佐世保に引揚げ
◇新田浩治さん(78)
敗戦の翌年、【満州】から引揚げた。 ※仏壇に深々と黙祷されていた
父親は国民学校の校長を務め、3人の女中と2人の運転手を抱える生活だった。
・しかし敗戦後、ソ連兵は銃を撃ちながら家の中に押し入り、金目の物は全て奪って
行った。そしてここでもー
◇新田浩治さん(78)
当時8歳。故 母・泰子さん
長は皆兵隊に取られてますよね。家には子供と奥さんしかおらんでしょう。あの
皆奥さん方は軍服を着て、ちゃんと戦闘帽子も被っとるけど、やっぱ女って分かる
じゃないですか? それで全部トラックに乗せてね、こう強姦しとるわけですよ。
・新田さんの見ている目の前で、ソ連兵に連れて行かれた女性達。
近所の家の母親も強姦された。 さらに悲劇が起こる-
辱めを受けたその母親は、子供を道連れ手榴弾で一家心中をしたという。
◇新田浩治さん(78)
まあウチの隣の隣くらいやったですけど、バァーン!っていうたから僕らが走って
出たら、もう*ブワァン*ともの凄い爆風でしてね。こう、肉片が飛ぶでしょう。
その飛んだのを犬が咥えるのを僕は目の当たりに見たんですよ。
だからその頃食糧無いでしょう。高梁とか粟とか乾パンとか芋しかないのに、
腹が空いているにも関わらず、4日ぐらい飯は食えませんでしたね。
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┣『鎮南浦同窓会』(2)
◆北朝鮮【鎮南浦】の街で「女性達が身を守る」ために覚えさせられたのは
“自ら命を絶つ”ことだったという。
◇80代の女性
「どうやって死んだらいいか」って“死に方”を一生懸命に、何も無かったので
昔で言うと「なり弓」(?)そういうのであの首の括り方、ここの頸動脈の切り方
そしてまあ親によってはその「青酸カリ」を持ってる、私の所は持ってましたけど
親は最後に死ぬから最初子供達が死ぬのを見届けて死ぬって言うのを聞かされて
たんで-
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
昭和21年度7月1日付
『問診日誌』佐世保引揚援護局 婦人相談所
ある「集団自決」の記録が残っている。【満州】からの引揚げ者の証言。
- 開拓団員の死傷者- ※誤字脱字があり加筆しました
-、周縁に二重の堀を築き、鉄-
-女交代の警備に当たる。 日に日-
-金品を強要す。団幹部は政-
~
圧迫に堪え兼ね全員自決の評-
・金品のみならず、女性を求めるソ連軍の圧力は日に日に強まり、
やむなく開拓団の老若男女・全員での自決を強行。
何も分からない子供達は「薬」だと言って「青酸カリ」を呑まされた。
グズグズしている老婆は団長から首を切られ、辺り一面は修羅場と化したと
その場を脱出した女性が証言している。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
【長崎県佐世保市】
「139万人」もの人々が引揚げてきた。
『佐世保引揚援護局史』で
佐世保でも“特殊婦人”の相談は行われた。
・15歳から50歳までの女性達、全員に話を聞いたと記録に残っている。
・相談員を務めたのは『佐世保友の会』の婦人達だった。
全国で2万人が今も活動する『友の会』では、
70年前の「引揚げ」のことが語り継がれている。
『佐世保友の会』
引揚げて来る女性達に直接向き合った当時の会員達。 ※写真には13名写っている
内、洋服姿が3名。
身なり上品。裕福な家庭?
◇故人・西村二三子さん
娘が母親を意識引き継ぎ、今も活動している。
◇中山興子さん(76) 『佐世保友の会』初期会員・西村二三子さんの娘
当時まだ幼かった中山さんは、母が毎晩遅くに“消毒の臭い”をさせて
帰ってきたことを覚えているという。
・中山さんの母親達は相談の内容を日々書き残していた。
※『問診日誌』佐世保引揚援護局 婦人相談所
お母さんの目の前で銃を突き付けられて、娘が犯されるっていうのは
どういう気持ちだと思いますか?
そして赤ちゃんを身ごもって、で「身ごもった身体で日本には帰れない」って
日本の島々が見えた時に身を投げたっていう。それをお母様が淡々と語られる。
語られたことを書き表すっていう・・・
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
『問診日誌』佐世保引揚援護局 婦人相談所
“悲しみを胸に”引き揚げてきた特殊婦人達の記録。
・ソ連兵から要求され、未婚の婦女子47名を差し出したが、それでも足りないので
第二班として合計80名を出しました-
・16歳の女学生が危うく陵辱を受けるところを見るに見かねて飛び込み、身代わりと
なりました。
・強引な要求をついに拒み切れず、とうとう我が娘を出しました。
・皆の見ている目の前で犯されました。
・63歳になる老婆さえ、暴行を受けました。
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┣■引揚げ者へのインタビュー(3)
【山口県光市】
満州から佐世保に引揚げ
◇枌谷勝二さん(79) 妻・智江子さん
敗戦翌年の秋、【満州】から引揚げた。
お互いに助け合っとったらね、笑顔で暮らして、土に帰ればいいの。*ニコニコ*
・「笑顔を絶やさないこと」を信条に、気丈に生きてきたという枌谷さん。
当時暮らしていたのは北朝鮮との国境に近い
【龍井村】
町は敗戦とほぼ同時にソ連軍に占領された。
・銀行マンだった父・治一さんと、よく気が付く母・敏子さん。二人の姉と弟。
枌谷さんは当時9歳だった。
・ソ連兵による性暴力は占領後すぐに始まった。
◇枌谷勝二さん(79) 妻・智江子さん
(占領した)ソ連兵っていうのは囚人兵、シベリア兵って言ってもう最低のね
兵隊だったんよね。「ロスケ、ロスケ」って僕らは言いよったけど、それがもう
女は犯す、*言葉を詰まらせながら*、本当に惨めなものだったですよね。エェ。
一番姉があの頃女学校3年生だった。それも坊主にして男装しとったりする。
(姉は)身体が小さい方だったから。だから、姉は犯されずに済んだのよね。
「いや子供は。子供だったら」と思ったんだろうね。*何度も頷く*
・姉は無事だった。しかし母・敏子さんは夫の目の前でソ連兵に連れて行かれた。
*ババァーンッ!*って空に向けてから(撃ち)驚かすんですからね!
そして「言うこと聞かないとやるだよ」っちゅうようなね。だからもう、*頷く*
仕方がないことですよ。そりゃ親父なんか「ウチの女房が連れて行かれる」そりゃ
もう“死ぬような思い”だったでしょうよ。
男連中らがね(女性が)こうポンポンポンポン車に乗せられるのを子供らが
見ちょるからね、そしたらやっぱり、女は女で「嫌ぁ!」言うとったりね。
だからかえって男の方がね、亭主の方が「お母ちゃんそしたら・・・ 」(説得した)
脅かし射撃やるんですからね。空に向けて*ババァーン*って。だからもう
「殺すようなことはないじゃろうから」「日本が負けたんだから」っちゅうて
泣きながらこうね、逆らうことは出来んかったのよ。(苦々)
*言葉を詰まらす* 親父なんかもね、、泣きながらでもどんなに辛かっただろうって
思うね。自分の女房を連れて行かれるんやからね。それはただ事じゃないねぇ。(涙)
*グスン*
◇妻・枌谷智江子さん
・・・ ・・・ ・・・ ・・・ 「恥になる」って今まで内緒で黙ってたこと
言ったよ。。。 とうとう言うたね、お父さん。
*小声で* アーハハハ。恥ずかしいってよう言わんわって
・・・ ・・・ 言ったのに。口出したくは本当はなかったんでしょう?
・・・ ね?思い出すのも嫌って言うとったから。アッハハ・・・
・・・ (頷く) ・・・
唇を噛みしめながら、手は落ち着かず動かしながら
終始必死に堪えていた。 *グスン*
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┣■日本文化への同化教育
北朝鮮から佐世保に引揚げ
◇小林茂さん(81)
日本が38年間、植民地としていた朝鮮半島に小林さん一家は暮らしていた。
・性暴力の被害を何度も目にした小林さんの記憶は
「自分達は被害者である」ということに留まらない。
朝鮮の方っていうのは植民地になったため、
日本人は、 第一皇民(一等皇民)だったんですよね。それで
朝鮮人の方は、 第二皇民(二等皇民)、「天皇の子」のあの「皇民」ね。
あとの国民は全部、第三皇民(三等皇民)って言ってね、もう虫けらみたいな扱い
だったんですよね。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
◆皇民化教育
・多くの差別があった。
『配給制度』には
日本人の、一等皇民には「米」を。
朝鮮人の、二等皇民には「米」と「雑穀の高梁」を半々に。
満州人等、三等皇民には「高梁」だけだったという。
・日本語を教育するなど、現地の人々を日本人化するために
『皇民化政策』も進められた。
※写真:小学校の黒板より
大國民の心がまえへ
肇國のおぼしめし
國運の-
皇民臣民の責-
・そして敗戦。
支配する側に立っていた
◇小林茂さん(81)
棒で叩くんですよ。日本人っちゅうのが分かったら。ちょっと恥ずかしいですけどね
頭叩かれた跡があるんです。ちょっとここお触りしてみて下さい。※頭頂部を向ける
◇取材記者 男性
・・・ ちょっと陥没しちょるでしょ? あっ、ホントだ。
そうです。 ココとココも陥没してますね。
コレはね、随分叩かれたんですよ。
「日本人のために僕らこんな苦労してんで」「こんな貧乏せにゃいけん」ってことで
*息を呑む*、殺されるんじゃないかと思うほどね、、殴られるんですよ。
・頭の形が変わるほど、顔中に傷跡は残るほど現地の子供達から度重なる暴力を受けた
しかしそこで初めて「日本がしてきた支配」とはどういうことなのか。
子供心に考えたのだった-
◇小林茂さん(81)
それはでも「僕らが悪いことをしたんだな」って、そういう理解ができたんですよ。
殴られて初めて。叩かれて初めて。
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┣■“特殊婦人”と“小さな命”
福岡県福岡市
【博多港】
国内最大の引揚げ港。「139万人」が上陸した。
hakatakou-hikiage.city.fukuoka.lg.jp
・ここでは多くの“特殊婦人”達が、本土上陸を目の前にして“命を絶った”。
北朝鮮から博多に引揚げ
◇金谷美沙子さん(77)
あのぉ若い女性の方達がね「海に飛び込んで死んだ」っていう話をね、
やっとこさ「故郷」に帰った。でも自分には自分が望んでいない子がね、宿ってる。
・・・
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
◆望まれなかった小さな命
・その命は程なくこの世から消えていった-
平成27年度【二日市済生会】
『水子供養祭』
【博多】から20km程離れた【二日市】では毎年行われている。
・法的には許されていない「堕胎」「中絶」が極秘に行われていた。
【二日市保養所】
在外同胞援護会救療部。
人道的な立場から女性達を救うため、終戦の翌年1946年、
引揚げ援護をする医師や関係者によって自発的に作られた。
「堕胎」は違法行為だったが、国も黙認し協力していた。
手術に当たったのは2人の医師と10人の看護婦達。
昭和21年6月
『二日市保養所現状報告』
望まぬ子を宿した「妊娠」を「不法妊娠」とし、
「堕胎」は妊娠後期の8ヵ月や9ヵ月になっても行われていた。
当時手術に立ち会った
◇青坂寿子さん(90) 元二日市保養所看護婦 ※当時20歳
「人助け」が信条で72歳まで看護婦を続けた。
【二日市保養所】の「堕胎」の仕事は「本当は断りたかった」という。
・これまで多くを語らなかったが、90を過ぎた今「これも私の役目」と重い口を
開いてくれた。
ズーーッとやっぱりね、もう私達は仕事だからアレだけど、やっぱり引揚げてその
強姦されてね。辛い思いして帰って来た人はやっぱりもう故郷にも帰られんであの
海に飛び込んで死んだ人もおるんですよ。だけども、やっぱりアレして??してね
それで医者に運ばれて来た人ね、一日も早くその身体キレイにしてね。そして故郷
に早く帰して上げたい・・・ 。やっぱり身綺麗になった人達はね、もう喜んでね、
あの病院からね、もう「さよなら」言うてね、まあた振り向かずに皆帰って行った
ですよ。*しみじみ*
お産もね、やっぱり臨月に足らない人、下ろすんだからやっぱり大変だったですよ。
やっぱ当時は道具もあんまり無いしね・・・
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
第33回 引揚げ港・博多を考える集いで
『京城日赤と引揚げ医療活動』
◇故・村石正子 元二日市保養所看護婦(京城日赤病院)
この隠された事実を語り継ぐ活動を続けてきたが、去年2015年春に亡くなった。
また一人、語れる人がいなくなった-
・朝鮮生まれの朝鮮育ち。元山高女を卒業し、京城日赤病院で訓練中に終戦になった
街では植民地からの開放を祝い、万歳マンセーと、韓国人たちの旗行列が行われて
いた。
米、韓の看護婦に業務を引継ぎ、市内の開業病院に配置され京城帝大医学部や
京城師範の学生とチームを組んで、北からの引揚げ者を手当てし病院船を仕立てて
博多港に引揚げた。当時二十歳であった。昭和二十一年に入って日赤事務長からの
連絡で厚生省引揚げ援護局二日市保養所の勤務についた。三月から五月あでの
三ヵ月間で当時の医師は橋爪先生、事務長は上床氏だった。
・敗戦後の外地で、ソ連兵や現地人に強姦された婦女の手当に-
- 淋病、梅毒などのほか不法妊娠を余儀なくされ苦しみを背負って-
・“麻酔無しの手術”に皆声も出さず堪えていた。
赤ん坊の泣き声を聞くと母性本能が目覚めるので、声を聞かせないよう幼い命を始末
したが、バケツの中で息を吹き返し泣き声を上げることもあった。
闇に葬られる終戦後の日本女性の悲劇・・・二日市保養所など - 日本史
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┣■引揚げ者へのインタビュー(4)
北朝鮮から博多に引揚げ
◇山本千恵子さん(78)
二日市の水子供養祭に毎年欠かさず参列している。
・北朝鮮北部の町【羅南】で暮らしていた。
敗戦が色濃くなると本土へ向けて、母親は子供4人を連れて引揚げ始めた。
・しかし、ソ連兵に囚えられ引揚げは途中で断念。
ソ連軍の監視下にある収容所での生活が始まった。その収容所で-
◇山本千恵子さん(78)
「マダムダワイッ!」って言って入ってくるんですよ。犯されないようにもう
用意をしているんですけど、収容所の中に*カッ*とパッとこう冷たい空気が走って
お姉ちゃん達は奥に走るし、皆で知らない振りをして庇い合いながら奥に行って、
奥の畳を1枚剥いで、お姉ちゃん達は床下に隠れるわけです。-
・収容所での生活は「性暴力」のみならず、「飢え」や「病気」「寒さ」との戦い
でもあった。
山本さんの母・文さんは当時身重だった。その上、収容所での環境は劣悪で
疫病が流行り始めた。そして何よりも食料不足は深刻だった。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
<山本さんの手記より>
北朝鮮からの引揚体験
山本千恵子
平成二十二年(2010年)夏記
一 終戦までの北朝鮮での生活
私ども家族が住んでいたのは朝鮮咸鏡北道清津府羅南という陸軍の町だった。
父は九州熊本、母は北陸高山の出身。共に向上心が強く、田舎を飛び出し、
新天地に夢をかけたのだろう。日本にあっては、まず出会うこともなかった
二人が結婚したのは1933年、私はその第二子で、姉、妹、弟の6人家族
だった。羅南駅前の一等地に駅弁屋さんと並んで我が家があり、父は酒造業と
倉庫業を営み、、母は助産婦の看板を掲げ、多くの赤ちゃんをとりあげ、家には
大勢の人が出入りしていた。
両親が子どもたちの将来に大きい希望や期待を抱いていたことは、姉の女学校
受験勉強を支える母の気合いに、よく表われていた。
通っていた国民学校では、分隊行進や避難訓練が頻繁に行われていたものの、
日常生活では空襲なども一度もなく、食糧も豊かにあり、何不自由ない日々を
送っていた。
~
夜、その方は拳を突き-
息絶えられた。
食料不足は深刻だった。日銭をかせぐ-
吸殻を拾い集めて巻き直し、立売りし-
料を手に入れられた期間は短く、寒波が-
みな一日を生きのびるのに必死だった。ソ連兵-
- 、ごみ箱からじゃが芋の皮などを拾い-
- 下水口から流れおちる米粒を拾ったり-
北朝鮮の冬は、零下十度~二十度にもなる-
- 越冬中、死者が増えていった。母は-
- と、まず子どもたちに与えていた-
- 限界だったと思われる二月に、母ー
・当時8歳だった山本さんはソ連兵の宿舎に潜り込み、ゴミ箱からじゃが芋の皮を
拾い集め、下水口から流れ落ちる米粒を拾い、なんとか飢えを凌いだ-
・最初に2歳の弟が亡くなった。さらに母親が死産。その母も3日後に亡くなり
子供3人だけが残された。
◇山本千恵子さん(78)
雪の舞う中を、あの山のそれこそ死者のために掘られた穴の中に、母を葬りに
行きました。もうその時はね、本当にあの涙なんか出ません。*グズン*
当時は本当に極限状態で
「アァ、弟の時は泣いたんだけど、母の時は泣かなかったなぁ」っていうのは
思い出しますねぇ。*頷く*
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┣■二度目の冬は越せない
満州から佐世保に引揚げ
◇枌谷勝二さん(79) 妻・智江子さん
- そしてその苦労って言うのは「内地に辿り着く」までにはもうあの当時で
2歳以下。それから60歳?65歳から上っていうのは90何%は皆死んだよ!
食べ物は無いし、もう病気で倒れても薬は無いしね。
・母親が性暴力の被害に遭い、敗戦翌年1946年の夏
「もう二度目の冬は越せない」と、一家は町を脱出した。
道端の草や泥フナを食べ、逃げるように大陸を彷徨った-
・数ヵ月後に【満州】の首都【新京】で、ついに母親が動けなくなってしまった。
子供達を守るためにソ連兵の言いなりになるしかなかった母。引揚げる間も
少ない食料を5人の子供に分け与え、自分は衰弱していった。
◇枌谷勝二さん(79) 妻・智江子さん
お袋は着物を沢山持てるだけ持っとったから、それを中国人に、敵から
物々交換しようと、食料と衣類とを交換しながら、なんとか【新京】である程度
生き延びたんでしょうね。でもその時にはもうお袋は「栄養失調」で、、、、
*グスン* 【新京】で「栄養失調」で亡くなったんですよ。
【新京】で「栄養失調」でウチの母親は、、、当時39歳。。*完全に言葉が詰まる*
・枌谷さんは幼い頃の自分を抱いた母の写真を二つに折りたたみ、
靴底に隠して持ち帰った。
今も母の夢を見るという。
しかし元気だった頃ではなく、亡くなる直前の姿だという-
◇枌谷勝二さん(79) 妻・智江子さん
始めは骨と皮から痩せるんですよ。そしたら次は太る、太るんだよ。
腹水が溜まるんですよ、腹に。バーッと腹が膨れてね、いかにも太ったように
見えるんですよ。そしたら腹水がスーッと引いたと思ったら絶ッ対 !! 助からん
のですよ! 目ばっかしこうキョロキョロってしてっからね。*白目を向いた状態*
ね、ひっくり返ったままね。目だけはキョロキョロキョロキョロしちょるわけよ。
今でもその顔を、顔を思い出すんですよね。(苦笑)(悲)
目だけはキョロキョロキョロキョロしてから、、まぁコレはもうだけど苦しい*2
言いながら「もうダメかもしれん」「もうダメかもしれん」と子供ながらにね、
母親であるお袋が言いよったからね、もうだから今でももう不思議。
「死ねー」ちゅうことだもん。恐怖感が無いんですよ、僕ら。
「何で死ぬねん、お前らは」という気持ちが今でもあるんですよ。
いや~、もうだから「体験」っていうのが酷いものですねー。(苦笑)
カーッとなってあの「体験」っていうのはホント根性まで変えてしまうんですね-
(苦笑)も目には大粒の涙
だから僕はもう極力忘れるために“明るく”*3、振る舞ってるつもりなんですよ、
僕らー。こんな話して一生クヨクヨして送るよりも、楽しい思いをした方が
同じ一生でも楽しい方が得ですからね。昔のことは忘れよう*2としても忘れられない
んですけどね。忘れよう、忘れようと思って・・・
※思いを伝えようと必死でした。
言葉に詰まり、額を掻いていた。
涙が流れ落ちるのを堪えていた。
╋━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┣■後世へ伝える
北朝鮮から佐世保に引揚げ
◇小林茂さん(81)
小林さんは家族に手記を読ませた後、直接“自分の口から”もう一度伝えた。
※3世帯で曾孫も。幸せそうな家庭。
・この曾孫にも伝わるのだろうか? 胸をなで下ろしている-
╋━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┣■亡き母の夢を継ぐ そして母や亡くなられた人達への思い
北朝鮮から博多に引揚げ
◇山本千恵子さん(78)
北朝鮮で母親を亡くした山本さん。
・戦時中、母は敵国語である英語を勉強していた。
戦争が終わったら世界中を飛び回ることが亡き母の夢だった。
・山本さんも同じように英語を学び、中学校の英語教師を35年間勤め上げた。
今は朝鮮語を勉強している。
いつの日か、母が眠る北朝鮮の地に手を合わせに行きたい-
◇山本千恵子さん(78)
母がいろんな夢を持ってたのを、分かってくる度にちょっと辛い思いをして
「どんなにか無念だっただろう」と。
で、母だけじゃなくて、戦争で亡くなられた方、皆がね、ホントに夢を絶たれ
どんなにか無念な思いで亡くなられただろうと思うと、もう堪らないですね、
ホントにね・・・
╋━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┣■「笑って生きよう」
満州から佐世保に引揚げ
◇枌谷勝二さん(79) 妻・智江子さん
「笑って生きよう」。目の前で妻を連れて行かれた父親の教え。
・引揚げの後、父は貧しくも男で一つで枌谷さんを育て上げてくれた。
・残りの人生を「笑って生きたい」。枌谷さんは胸を張る。
╋━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┗■戦争の悲しみ
◆この先も語らない人、語らずに亡くなっていく人
・きっと大勢いることだろう。
・戦争というものが生み出す“奥底の悲しみ”。その“深さ”を私達はまだ知らない。
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◇感想‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
┣・まずは貴重な証言をメディアを通じて語って下さった先達の方々に敬意を表します。
また直接の承諾も得ず、このような文字起こしをしてしまったことをお許し下さい。
┣・全てをメモし終えて、少し距離を保って私が判断するに『日露外交』『北方領土』
『サハリン・極東開発』の進展が検討される中、メディアが親米派の【日本テレビ】
ということを加味すると「ロスケ」への過剰批判が少し懸念されます。相手側の反論
なども付随すべきだったかと個人的には感じました。
┣・「戦後70年」を前にして一昨年2014年頃から引揚げに関する書籍が多数出版される
ようになりました。同番組のインタビューにもあるように、これらは嫌韓、嫌中っと
いった一方的な批判ではなく、事実と反省の元に語られています。私も数冊所有し、
また図書館などで見掛けるとよく手にしています。しかし書面での訴え以上の感情の
揺さぶりを同番組で受けました。映像の迫力を痛感するとともに、書面を読み・知り
調べ・洞察することにより、さらに考えが深められると実感することができました。
┣・朝鮮半島での植民地支配が「38年」にも及んだいう重みをどれだけの日本人が知り
真剣に捉えているでしょうか? 街並みは現代の地方都市を思わせるが如く発展して
いました。食糧も豊かだったようです。しかしそこには『五族協和』は名ばかりの、
明確な差別が行われたことも加味して考えないといけません。そして辿り着く先には
「戦争に負けるということ」と「敗戦するにも無策すぎた」日本帝国軍の上層部への
重き責任があると私は考えます。
┣・昨年2015年、国会議事堂前を中心に若者達が行動を起こした『安保改正反対』運動は
後に年配者が中心の抗議活動へと変わりました。なぜご高齢の方々が、寒空の中でも
若者達に負けず劣らず声高に「戦争に繋がる法改正」へ反対の意思表示を示したのか
今回の番組を通じ、戦争によって引き起こされた事実をしかと受け止め、各自考えて
みて下さい。
┗・私は米国軍が自国エリア内への“引きこもり”を主張し始めたがゆえ、【自衛隊】の
強化策には賛同するクチですが、自国民で議論する前に他国の議会で「改正します」
「だからこれからも仲良くしてね」などとほざく筋の通らない輩が大っ嫌いですッ!
戦争とはどこの国でもそうですが、「敵は身内に有り」なのかもしれません。(悲)