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今だから分かった!『金嬉老事件』

2015/06/13(土)<今だから分かった!『金嬉老事件』>
【リアリTV】 http://www.ntv.co.jp/realtv/

www.ntv.co.jp


*敬称略しています。 また長文ゆえ誤字脱字が多いです。ご了承ください。


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┏┓最新科学 <今だから分かった!『金嬉老事件』>
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  かつて日本で起きた事件や出来事の記録映像を、
  現在の画像・音声鮮明化技術や丹念な取材によって再検証、
  その出来事の新たな真相やこれまで注目されることのなかったポイントを発掘!
  そこから今、私たちが学ぶべき教訓が見えてくる・・・

  http://www.ntv.co.jp/realtv/onair/20150613.html

 

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  メディアを通し、世間を観客として進行する“劇場型犯罪

  今から47年前、日本犯罪史上初の劇場型犯罪が起きた!


  「ライフル魔の恐怖」 静岡・寸又峡温泉

  *パァーン* *パァン!* *パァーン!* 銃声が不気味の轟く

  ライフル銃とダイナマイトを盾に、旅館に立て籠もる殺人犯

  人質にされた旅館の泊まり客や従業員は、恐怖のどん底に落とされた

  人質解放の条件は、前代未聞の「警察の謝罪」

  またライフル魔と談笑する人質たち *奇妙な連帯感*

  そして連日行われた「異様な記者会見」

 

┣『金嬉老事件

  1968年2月20日 籠城1日目
  23時35分
 ・金嬉老ことキム・ヒロ(当時40歳)
  静岡市内で暴力団をライフルで射殺した後、寸又峡へ逃げ込み
  ふじみや旅館にいたダム工事の業者や旅館の家族を人質に取った。※13人

 ・市原勝正さん(72) ※「人質」になった宿泊客
  ちょうど寝てた、ウトウトとしてた時ですからね。いきなり起こされて、
  見たら編み上げ靴で銃下げてね。「私、君たちに危害を加えるつもりはないから」
  ということで、いろいろお話をされて・・・


 ・キムは人質たちに自分の生い立ちを語り、警察を相手に決着を付けなければ
  ならないことがあると伝えた。迷惑を掛けて申し訳ないと土下座して謝るキムの
  為に、人質たちは畳でバリケードを作り、ダイナマイトを運び込んだという。

  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
  1968年2月21日 籠城2日目
   0時10分
  ライフル銃と500発の実弾。150本のダイナマイトで武装したキムは
  清水警察署に電話。自らの居場所を告げ、なんと警察に対決を呼びかけたのである


  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
  1968年2月21日 籠城2日目
   4時
 ・事件発生から4時間後、警察も近くに前線本部を設置したが、
  うかつに近づくこともできなかった。

 ・一方、前代未聞のライフル魔を巡って、もう一つの闘いが始まっていた。
  日本中のマスコミによる“スクープ合戦”

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  1968年2月21日 籠城2日目
   9時
 ・非常線をヘリで飛び越え、現場へ降り立った記者がいた。すると意外にも
  キムは記者を中に招き入れる。

 ・田近東吾(70) 元TBS記者 ※金嬉老を取材した
  質問の第一声は
  「こんなにダイナマイトをヘリの側に置いていて危なくないんですか?」
  というのが私の質問なんですけれども(苦笑)、そしたら彼は

  「いや大丈夫だよ。爆発はしないよ。ダイナマイトは温めて柔らかくしないと
   爆発力は弱まるんだよ」

  なんてそんなやり取りからインタビューが始まったくらいで、
  非常に彼は冷静でしたね。

  Q.人を殺して武装してダイナマイトまである。恐怖心はなかったんですか?

  それは(恐怖心は)不思議と全くなかったですね。
  彼のそのまぁ態度とか、あるいは物腰というか、しゃべり方と言いましょうか
  そういうことを含めて、全く自分が殺されるかもしれないとは感じませんでしたね
  全くね。


  この時キムの背後の壁には七輪の炭で大きく書かれたある“メッセージ”があった

  「 罪のない此の家に
    大変な迷惑を
    掛けた事を心から
    申し訳なく思います
    此の責任は自分の
    死によって詫びます     ※今現在も残っている。
         ・・        薄くなってほとんど読めないが
     ・             「詫び」と「母」だけは
    お母さん           かなり強い力で書かれた様子で
     不幸を           47年経った今も痕跡が分かる。
      許して下さい  」


  事件を起こした動機、母親への悲痛な想いの背景には
  母子が受けた壮絶な体験があった。

 

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┣■民族差別


  1928年1月1日
 ・朝鮮半島から出稼ぎに来た夫婦の長男として、キムは静岡県清水市※現在の清水区
  で生まれた。しかし5歳の時に父が事故死。母・朴得淑(パク・トクスク)は
  4人の子を養うために「ボロクズ拾い」を始める。

 ・キムはその後の裁判の意見陳述で、当時の様子をこう語っている。

  地下足袋履いた母が、重いリアカーを引いて私を載せて、
  1日中、清水市内を歩きました。
  「ヤイ朝鮮人朝鮮人」と日本の子供たちから石を投げつけられました。

  母親がそういう風にからかわれる姿を見て、その当時の気持ちをここに再現しろと
  言っても、到底できるものではありません。


 ・当時を語った母・朴得淑の肉声が残されていた。※聞き手:作家 故・山本リエ
  「私の家が昔貧乏で(日本の)衆が朝鮮人を馬鹿にしたの。(本当だねぇ)
   すごく馬鹿にしたのね。残った冷や飯をね、ウジがわいてね(いるのに)
   それを私に食べろと、あの飯を私が食べろっていう・・・ 」※ここまで言う奴いる?

  “激しい民族差別”の中で生きてきた母と子。

  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
  1967年7月
 ・溜まりに溜まった感情を爆発させる出来事が起きた。

  キムは清水の繁華街で朝鮮人と日本人の喧嘩に遭遇する。
  すると仲裁に入った警察官が叫んだ。

  ・金嬉老ことキム・ヒロ
   「お前たち朝鮮人は日本に来てロクなことをしない」とか
   そう言ってその、非常に聞き捨てならないことを言うわけです。


  その警察官が清水署の巡査だと判ったキムは、電話を掛け抗議をするが

  ・金嬉老ことキム・ヒロ
   「このことを内外に広く訴えて、一応問題にしていくけど」と言ったら
   「やれっ!」って言うんですよ。「俺は楽しみにして待っててやる」と
   そう言ってせせら笑ったですよ。

  籠城したキムが警察に謝罪を要求する理由はココにあった。


 ・田近東吾(70) 元TBS記者 ※金嬉老を取材した
  内側に激しい怒り。そういうものがあったというのはもう分かったんですけど
  こういう事件をなぜ起こしたかということの説明としては、理解が出来るよう
  な気持ちでは見てました。

 ・市原勝正さん(72) ※「人質」になった宿泊客
  やっぱり“一本気な人”じゃなかったかと思いますけどね。
  思ったことをやり遂げるというか。


 ・金嬉老ことキム・ヒロ
  警察であっても誰であっても、間違ったことを言ったりしたり
  それがためにとてつもない所まで、その人間を追いやったとすれば
  そりゃあなたもね、その責任を警察は男らしく取るべきだと私は思います。

  自分の命のある限りは警察に抵抗する。


  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
  1968年2月22日 籠城3日目
   9時
 ・事態を打開するため、警察は県警トップによる謝罪放送に踏み切った。


 <異例の“テレビ説得”>

 ・高松敬治 本部長(当時) 静岡県警
  私は君の話をよく聞いて、改める点は改めるし、謝るべき点は謝りたい。

 ・キムに名指しされた清水署の巡査(当時)
  あなたの言い分を十分聞いて、もし私に落ち度がありましたら謝ります。


  前代未聞のことだった。しかし不十分だと納得しないキム。

 ・13人の人質の内、旅館経営者の妻と子供を解放する一方で、新たな行動に出る。

  なんと報道陣を招き入れ『記者会見』


 ・金嬉老ことキム・ヒロ
  僕だって小さい時から何かにつけて、いびられてね、虐げられて、
  「てめえら朝公が何だと!」ね? 朝公ってことは朝鮮人を軽蔑した言葉だよね。
  朝鮮人のチョウを取ってアサというわけだよね。

  「ライフル魔」と言われたキム。しかし彼の叫びは事件の奥に潜む
  『民族差別』という問題を浮き彫りにした。

  やがて人質たちとキムの間に不思議な連帯感が生まれる。


 Q.(窓枠から)*バンバンバン*と(キムが)撃ってる時に
   横にいらっしゃいましたよね。何か会話してましたけど?

 ・市原勝正さん(72) ※「人質」になった宿泊客 当時25歳
  薬莢が飛ぶもんですからね、こうやって受けてましたからね。
  「熱い熱い熱い」って。そりゃ熱いわね。(笑)

  「リラックスしていればいい」って。
   好きなことをしていればいいってことだものね。

  食事もしましたし、ハイ。お風呂も1回入りました。入りました1回。


 Q.その時キムの監視とかは無く?

  一緒に風呂も入りましたもの。(一緒に入りました?)ハイ。


 ・金嬉老ことキム・ヒロ
  僕は監禁しているつもりはないけど、同居していると思っているんですけどね。
                                *取材陣笑い*


 Q.キムは13人の仲間が一緒にいるんだと。仲間って表現を使っているんですけど

 ・市原勝正さん(72) ※「人質」になった宿泊客 当時25歳
  あぁそうですか。そう言われりゃそうかも分からんですね。ウン。(仲間?)
  仲間と言えば。(多少の気持ちが通じ合うような?)そうです、ハイ。
  そういうことありましたね。


  命を懸けて戦うキムの姿を前に、その場を逃げ出す人質は一人もいなかった。


  警視庁からは狙撃班が。そして愛知県警からは2千人の応援が駆け付けたが
  人質が盾となり、事態を打開できない。

  そこで警察はある作戦を立てた。記者会見に“刑事を忍び込ませた”。


  一方、旅館には母から電話が何度も掛かってきた。
  しかしキムは一切応じなかった。


 ・金嬉老ことキム・ヒロ
  少なくてもどんな極道であっても殺人犯を犯して、なおかつこうやって
  人様に迷惑を掛けたっていうことはね、まあ母親にも合わせる顔が無いし
  母親が会いたいって言っても、僕は会う気持ちには到底なれない。


  そんなキムの元に、母からの言伝と品が届く。

 ・母 朴得淑
  日本人だけではない。韓国の人も見ている。ヒロ、立派に死になさい。
  誰かがいつかは、こういうことをしなければならないことを
  母は前から覚悟していました。

  この言伝とともに差し入れたのは『死に装束』だった。


  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
  1968年2月24日 籠城5日目
  15時過ぎ
 ・警察は緊迫の度合いを高めていた。そしてついに運命の時が訪れる。

  玄関前で開かれた記者会見。実はこの中に報道機関から腕章やカメラを借りて
  紛れ込んだ警察官が9人もいた。

  解放された人質に気を取られ、一斉に移動する報道陣。と、その時!

  一斉にキムを囲む警察官たち。キムは舌を噛み切ろうとするが警察に捉えられ
  籠城88時間で日本初の劇場型犯罪は幕を下ろした。

 

 ・キムの逮捕を伝える当時の新聞には「ライフル魔」の文字だけが躍る。
  そこにはキムが命懸けで訴えた『民族差別』の文字はほとんどなかった。

 ・裁判中も、そして無期懲役が確定し刑務所に入ってからも
  キムは『民族差別』について訴え続けた。 ※支援者たちへ送り続けた沢山の手紙

  その息子を支えてやりたいと
  母は早朝から深夜までホルモン焼き屋で働き続け、 ※営んでいた?
  静岡から刑務所のある熊本まで通い続けた。


 ・金嬉老ことキム・ヒロ
  オモニ(母)と俺とはこれからもずーっとオモニが俺の心の影になって
  またどこまでも苦労を一緒にしていかなければならんのかーと考えると胸が痛い
  ですね。

 ・母 朴得淑
  どうせヒロと私とは、手を握って死ねるとは夢にも思いやしないけど
  それでも馬鹿な親で、何とかしてアレの手を握って死ななければという気持ちは
  あるですよ。
  これは私の運命だから諦めて、クヨクヨすることも誰のせいにすることもない(泣)


  1998年11月3日
 ・母 朴得淑 永眠(享年89) ※息子の出所を待ちわびながら・・・

  最愛の母が亡くなった翌年
  1999年9月7日
 ・金嬉老(70)
  韓国への出国を条件に仮釈放が実現。       最期まで連れ添った
  韓国では民族の英雄として熱狂的に迎えられた。 ※イ・チョンヒさん


  晩年、事件のことをキムはこう振り返っている。

  「反省は、私個人の責任は100%、あのぉ受け止めなければならん。
   後悔というよりも、自分の人生をお母さんのためにと思っていた部分が
   全部この事件のために消えてしまったしね。(悲)」


  2010年3月26日
 ・金嬉老 永眠(享年82)  ※前立腺癌のため

  亡くなる数日前、ある遺言をしていた。

  自分の遺骨の半分は、父の生まれ故郷の釜山影島の沖合に撒いて欲しい。
  そして残り半分は、母の眠る静岡のお墓に一緒に入れて欲しい。

 

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  語り継ぎたい衝撃の出来事
  風化させずに伝えていくために
  今だから分かった!継続取材中

 

◇感想‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

┣・残念ながら当時の映像は白黒のまま。まあこの事件の場合は語りまくって
  いるので画像・音声鮮明化技術は要らないですね。丹念な取材が一番です。
  ちなみに私は当事件をほとんど知りませんでした。フジTVでドラマ化し
  ビートたけしが出演していたと判って「アー、あのドラマか」と少しだけ
  思い出したくらい。しかめっ面演技がほとんどのビートたけしが好かんので
  冒頭だけ見てすぐにチャンネルを回したのを強く覚えています。(苦笑)

┣・正直自分はこれまで東洋人/欧米人ともに接点がほとんどない人生を送って
  きたので、この手の話を身近に経験したことがありません。番組としては
  上手な作りだったのでメモをした次第ですが、ネットや図書で裏を取ると
  ポロポロとTVでは見せなかった部分が出てきます。なんでこの時期に
  取り上げたのだろう。最近来日した韓国外相と関係しているのかな ??
  まぁ多分そうなのでしょうね。*読売グループ*

┗・自分自身が何度も注意する「そういう意見も・考え方もあるんだ」視線で
  メディアが提供するものを安易に信じ込まない、典型的な例だと言えますね。

  そういう意味で私はブログに載せておきます。自分でも調べる姿勢を持とう。