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「特攻隊を教えてください」福士蒼汰

2015/08/15(土)<「特攻隊を教えてください」福士蒼汰
【私たちに戦争を教えてください】
 http://www.fujitv.co.jp/sensou_oshiete/navigator.html

www.fujitv.co.jp


*敬称略しています。 また長文ゆえ誤字脱字が多いです。ご了承ください。


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  終戦70年ドキュメンタリー
┏┓   <「私たちに戦争を教えてください」>
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    この番組は戦争が本当はどんなものだったのか
      体験した人々に話を聞きその悲惨さや
      虚しさを伝えることを意図しています。

  そのため実際の戦闘場面や遺体の映像なども含まれます。
     特にお子様等の視聴にはご注意ください。

 

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 福士蒼汰
┣「特攻隊を教えてください」


 ◇福士蒼汰(22)
  静かですね。。。 ※強い風吹く音が聞こえる

  鹿児島県鹿屋市
 【海上自衛隊・鹿屋航空基地】
  70年前、ここから何人もの若者が飛び立っていった。

 ◇福士蒼汰(22)
  ちょうど僕くらいの年の人達が、ここから飛び立って特攻に行くって
  何考えるんですかね、飛び立つ瞬間って本当・・・

 【特攻隊】
  彼らは死ぬことを命ぜられた。
  機体もろとも敵艦に体当たりし、自らの命と引き替えに敵を沈める
  【特別攻撃隊】いわゆる【特攻隊】。
  敵の激しい対空砲火に撃ち落とされた者も多く、         全102巻
  特攻で目標に体当たりできたのは「約1割」とも言われている。※『戦史叢書』より
  そして約4千人もの命が無残に失われた。 ※『特攻隊戦没者慰霊顕彰会』より


 【鹿屋航空基地資料館】

  鹿屋航空基地 史料館TOP

  そうやって海に散っていった僕と変わらぬ年頃の彼らが
  特攻服を着て微笑んでいる。

 ◇林市造 少尉(享年23) 神風特別攻撃隊
  <手紙> 特攻遺書
  「お母さん、私もぐちをもうこぼしませんから   ※母・まつゑさん
   お母さんも私についてはこぼさないで下さいね
   泣かれてもかまひませんが 泣いて下さいね
   お母さんに心配かけるばかりで
   何も出来ずに死んでゆくのが残念です
   特攻隊といつてもたいしたことはなく
   ほまれでもなんでもないですが
   お母さんだけはほめて下さいね
   惜しんで下さい
   天国に入れてもらへますかしら
   お母さん 祈って下さい
   お母さんが来られるところへ
   行かなくてはたまらないですから
   お母さん さようなら
   こんな手紙かいて未練だと笑って下さらないで下さいね
   さようなら     市造              」


  望んでもいないのにまもなく死を迎える。
  彼らの絶望の裏で堪らなかった・・・ (涙泣) ※号泣する理由を聞かれて
                       「分かんないッス。*グスン*」
                       特攻遺書の実物を間近で読んだら
                       まともな人間なら号泣します。経験者


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┣■福士蒼汰×「特攻」


 【特別攻撃隊】1944年編成(昭和19年)※終戦の1年前
  爆弾を積んだ航空機で敵艦に体当たりする攻撃部隊。
  全国の基地から多くの若者達が出撃。
  陸軍海軍合わせて戦死者約4000人。帰らぬ人となった・・・


 ◇福士蒼汰(22)
  実は僕の亡くなった祖父も元特攻隊員の生き残りだったことを最近知り、
  その心の内を知りたいと思っていた。


  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
  東京都新宿区
 【茶道裏千家 東京道場

 ◇千玄室さん(92) 元神風特別攻撃隊
 ・茶道裏千家15代家元。
  これまで世界中のVIPに茶道を通して“和の心”を伝えてきた。
  (鄧小平、ヨハネ・パウロ2世 etc.)

 ・同志社大学在学中、20歳の時に召集された。
  母・嘉代子さんに見送られ出征した。

  (白黒写真を手にしながら)う~ん、懐かしいなぁ。
  でへ(笑) ここに僕がいますよ。これが僕でねぇ・・・


  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 ◆海兵団に入ったばかりの千玄室さん。

 Q.なぜ特攻隊に入ることになったのか?

 A.
  ◇千玄室さん(92) 元神風特別攻撃隊
   1945年の、ちょうど3月でしたか。
   「特別攻撃隊編成の命令が下った」って言うんですよ。
   そして(上官が)今から紙をみんなに回すと
   一瞬ザワッとざわめきましたねぇ。

    『神風特別攻撃隊志願書』

     神風特別攻撃隊入隊ニ対シ何レカニ印メシテ提出

         熱望
         希望
          否

                 徳島海軍航空
                 指令 川元徳

   こう見たら『希望』、『熱望』、『否』。
   これ選ばなアカン。
   (仲間が)「俺、絶対『否』に丸するわ」って。(笑)
   「おまえもし『否』って書いてみい。お前一発で(特攻に)回されるわ」
   「むしろこういう時は『熱望』の方がエエぞ」

   それで僕は『熱望』の所へグルグルと丸をして名前を書いた。

   それから2週間後、「諸君達の希望を受けた」、「全員、特別攻撃隊
   「全員、特別攻撃隊員として指名する」。「終わりッ!」ってそれで終いですわ。

   エェッヘヘヘ(苦笑) 暫く・・・ 。  ※つまり選択肢など他になかった。


  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 ◆突然、将来が失われる。


 Q.死が目前に迫ってくる、若者達はどんな心境だったのか?

 A.
  ◇森丘哲四郎さん(享年23)
   千玄室さんの親友。終戦の4ヵ月前に特攻で亡くなった。

  ◇千玄室さん(92) 元神風特別攻撃隊
   もういつでもね、出てくるんですよ。
   森丘の声がここで(耳元で)聞こえてますわ。
   (一生忘れない)ハイ。惜しい男やった。

   「俺が死ぬことによって国が助かるとか、大それたこと思わんわ」

   そう言ってましたね。     ※それが当時も今も変わらぬ
                   若者達の本音のように思える。

   鹿児島県鹿屋市
  【鹿屋航空基地資料館】

   鹿屋航空基地 史料館TOP

   戦友・森丘哲四郎さんの日記が展示されている。

  ◇福士蒼汰(22)
  (出撃前の遺影を拝見して)
   すごく凜々しい顔をされているけど、でもまだ20代成り立てだなっていう
   感じですもんね、まぁ・・・ 。

   ※1冊100枚綴じはありそうな厚いノートが8冊。日記帳として書かれている。


  ◇森丘哲四郎さん(享年23)
  ・富山県の出身。東京農業大学で学びラクビーが好きだったという。
   入隊前から書き続けていたという8冊の日記帳。
   「農業大学日誌 農部一年農科」、「琢磨録 出水海軍航空隊」(落書きあり)
   「元山空戦 想」、「海氷流る 元?戦 森丘少尉」 ※ノート帳面より

   この中には森丘さんの様々な思いが。まもなく出撃するという日まで綴られていた

  ・出撃の命令が下った日
   昭和19年(1944年)
   2.22  一大記念すべきの日なり
         私の身を心を祖国に捧げ得る日が予約された日だ
         なんたる喜ぞ 光榮無上絶対なり
         即内々に海軍特別攻撃隊員の一員として選に入
         りし日なり
         朝八時 搭乗員総員整列.
         司令より我が隊の直面せる重大性を訓示さる
         〇八団〇飛行長より分隊の編成制更を発表各
         分隊長を司令さる

  ◇福士蒼汰(22)
   書けないですよね、普通。
   しかも「何たる喜びぞ」って・・・ 。この文書けないなっていう。


  ◇森丘哲四郎さん(享年23)
  ・しかし一方、日記には意外な記述が・・・

   出撃半年前に森丘さんが描いた農場設計図
   綿密に描かれていた。500町歩の農地に耕す作物を、通路を。
   アプローチには花畑が有り、その先には温室や果樹園。
   奥には集会所などもあって、いろんな人が集えるようになっていた。
   赤・青・黒の色鉛筆で、細かい捕捉付きで記されている。

  ◇福士蒼汰(22)
   「夢」って書いてありますもんね。  ※赤鉛筆でグルグル太く丸されている。
   ・・・ なんか、忘れてないんだなって思いますね。生きることに対してえ。
   多分、現代で生きている人より、、より生きているというか・・・ *言葉が詰まる*


  ・特攻で死ぬ覚悟を決めた若者が、懸命に考えた将来の「夢」。
   日記帳には想像を絶する葛藤が記されていた。


  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 ◆まさに“洗脳”壮絶な訓練とは?


 ・そして、それぞれの部隊で特攻隊として二人を待っていたのは
  想像を超える厳しい訓練だった。


 ◇森丘哲四郎さん(享年23)
  将来自分が何になろうと希望を持って、みんな勉強していたわけですから
  ハッキリ言えば“絶望感”があるわな。

  そういう“絶望感”というものは捨て去られるわけですよ。
  もうちゃんとね、教育に当たる下士官達は分かってるんですよ。
  ねっ?「さぁいらっしゃい!」*両腕を広げる* というわけで

  「お前ら絶望感持ってるやろ!
   そんなもん、ここじゃ通用せんッ!」というわけですよ。

  もう鉄拳制裁ですよね。

  「歯を食いしばれ、股開け!」
  「ハイ」股を開いて「*ウ”ゥ*歯を食いしばる」

  そうすると(笑)、バコーン!バコーン!*握り拳で両頬をぶん殴る*
  ってやられるんですよね。(苦笑) もう血だらけですよ。

  悔しーい!ですよ。コノヤロォ!と思いますよ。
  そのいわゆる反抗心がね、むしろ「よーしやったるで!」という気持ちになる
  んですねぇ。  ※呆然とする◇福士蒼汰(22)

  だから“絶望感”というものは本当に
  (海軍に)入って10日目ぐらいに(苦笑)、どっかいっちゃったですね。

  まぁ“洗脳”と言えば“洗脳”かもしれないけど、恐ろしいもんですよ !!
                         ・・・・


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 ◆迫り来る“死” 日記に残された“本心”


 ・“絶望”と“洗脳”。森丘さんが特攻を告げられた日に綴ったこの言葉も
                 「なんたる喜ぞ 光榮無上絶対なり」

  過酷な訓練の日々が書かせたのであろうか。

  別のノートにそのことを物語る記述があった。
  出撃が近づいた日の一文だ。


  ◇森丘哲四郎 少尉(享年23)

  <出撃が近づいた日の日記より>

   私の美しき心の表現となさむために
   作り来たこのノートも 4月1日 の夜を以
   て 全てか失はれたり
   即ち酒だ
      酒,
              ※徐々に「酒」が大文字になっていく
      酒

        酒

    總を破壊するのは酒だ
    私は酒に負た


 ・きっと出撃を前に懸命に心の平静を保とうとしたが、
  酒を飲んだら乱れてしまったのだろう。。。


 ◇福士蒼汰(22)
  でもなんかコレってこっちが普通がしますね。*何度も頷く*
  すごい精神的に強い人なんだろうなという感じはするんですけど、森丘さん
  でも、、そんな人でも・・・ やっぱり耐えきれない思いがあるんだろうなと思うし
  ・・・  ※深く考え込んでしまう


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 ◆出撃する兄 妹との別れ

                      兄・哲四郎さん(当時21歳)
 ・そんな森丘さんにはいつも気に掛けてくれる妹・まさゑさん(当時18歳)がいた。
  歳が近く兄弟姉妹の中でも一番仲良しだった妹。

 ◇名和まさゑさん(90) ※森丘哲四郎さんの実妹
 ・【沖縄戦】が行われていた1944年4月初旬、まさゑさんには“虫の知らせ”があった
  という。

  “夢枕”ってありますね。“夢枕”で私、この兄(哲四郎さん)の海軍の姿なんか
  全然知らないわけですからね。学生服しか知らないのに。なぜかその4月の朝早くに
  夢を見て、なんか暗ーいところ遠くっから(兄・哲四郎さんが)段々と近づいてきて
  私が何気なくこうボタンに触ったら消えたの。それでパッと目が覚めたもんですぐに
  主人にそれを言ったの。「(特攻に)出たな」って・・・


 ・同じ月の1944年4月29日、森丘哲四郎 少尉は【鹿屋基地】を出撃。
  沖縄本島の先、南西諸島沖で“帰らぬ人”となった。

  愛する妹にひと目逢いたい。それが最後の望みだったのか。


  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 ◆出撃した戦友が残した現実とは?


 ・そして千玄室さん達の部隊にも、その日が近づいていた。


 ◇千玄室さん(92) 元神風特別攻撃隊
  “本心”はみんな「怖い」。もう(特攻出撃の)命令がいつ出てくるか分からん。
  それを待っている時の気持ち。自分らの故郷の方を向いて「お母さーんッ!」って
  「お母さぁーーんッ!」って。みんなね、もうボロボロ涙流して。 ※話し手聞き手
                                  双方涙を流す


 ・【特攻】が始まって半年が過ぎた
  1945年4月
  【太平洋戦争】末期。この頃になると日本軍は、もはや他に打つ手も無くなり
  来る日も来る日も【特攻隊】を出撃するようになっていた。

  千玄室さん達の部隊にも、その日が近づいてはいたが
  実は【特攻】にはある“根本的な問題”があったという。


 ◇千玄室さん(92) 元神風特別攻撃隊
  そりゃね【特攻隊】は体当たりと言うけどね、そんなもんできっこありません(苦顔)
  とってもじゃない! 12機出て、成功したのは2機ぐらいでしょう。
  あとの10機ぐらいは申し訳ないけれども・・・ (撃墜された) ※言葉を詰まらす


 ・当時、米国軍は最新鋭のレーダーによる警戒網を敷き、
  【沖縄戦】の頃には約200km先から特攻機を捉えることができたという。

 ・さらに重さ250kgの爆弾などを積んだ特攻機は老朽化した機体も多く、
  その警戒網を突破する飛行能力はもはや無く、その多くが敵艦に到達する前に
  撃墜された。


  敵の戦艦が*ババババババババッ*撃ってくる中を切り抜けて行かなきゃいけない。
  うーん(要するに体当たりする前に撃ち落とされてしまう)ハイ。
  だからね、本当にコレ我々(基地に)残っている者は分かる。通信でね。*打電*
  それを傍受しているんです。基地の残った連中はみんな。「あぁ~やったなぁ」

         高音
 ・【特攻機】は*ピー*という音を基地に向け発しながら敵艦に突入していったという。
  *ピーーーー、。。。*  その音が切れた時“突入”を確認した。


 ・そしていよいよ、千玄室さん達にも出撃命令が下ろうとしていた。

 ◇千玄室さん(92) 元神風特別攻撃隊員   茶の道具
  出撃する時に私はお茶の家の息子ですから『茶箱』ポータブルの茶箱(持っていた)
  みんながね「千よ、お茶にしてくれやぁ」。それで「よし」と羊羹を切ってね、
  みんな車座になってね、それで私が茶を点てる。*仕草* 「うまいなぁ」てね。
  もうその時にそのぉ一番最初に(特攻で)突っ込んだ旗生という少尉でしたけど
                          旗生良景 少尉(享年22)
  それが私のお茶を飲んで、
  「千な、俺な、生きて帰ってきたらな、
   お前んとこの茶室で茶飲ませてくれよ」と。

  それを聞いた時にね、あぁー「俺達は生きて帰られへんのや」と
  そのお茶を飲んだ時、みんな・・・ 「オイ、おふくろに会いたいな」と。(涙目)
  そして(私の故郷)京都の方を向いてね「お母ぁさーーん」って。
  そしたら旗生少尉からみんなね、立って自分らの故郷の方を向いて
  「お母さぁーーんッ!」 *両手で口の周りを囲いながら*

  親父には申し訳ないけれども、本当にね、お母さんにもう一遍
  おふくろにもう一遍、*抱擁* 頭撫でてもらいたかったんです。
  みんなね、もうボロボロ涙流して。 死ぬってこと分かっとってもね「生きたい」。
  「生きたいわぁ」(涙目) どっかで、とにかく不時着してでも生きたい。

  それから1週間後10日後(特攻に)みんな出て行きましたよ。*頷く*
  みんな帰ってきませんでした・・・

  「俺、生きて帰ったら、
   お前んとこの茶室で茶飲ませてくれよ」

  それが私の耳底に残ったまま、70年経った。(涙)

  ・・・ 辛抱たまらず真っ白なハンカチで涙を拭った。

  全く無残なことですね。


 ・戦友を見送り「次は自分の番だ」と覚悟した千玄室さん。
  しかし出撃命令が出る前に終戦を迎えた。

 ・そして千玄室さんは戦後、先に逝った仲間との約束を果たすために
  活動を始めた。

  2015年5月31日
  鹿児島県鹿屋市
 『平和祈念献茶式』
  森丘哲四郎 少尉の妹・名和まさゑさん(90)も招待された。

  【特攻】で海に散っていった隊員は陸海軍合わせて約4千人。
  戦後70年、千玄室さんが点ててきた茶は“平和を願う”お茶でもある。

  茶碗はあの森丘さんが大切にしていたもの。
  戦争が終わってもし生きていたら、二人でお茶を点てるつもりでいたという。


 ◇千玄室さん(92) 元神風特別攻撃隊員   茶の道具
  ただ「家族のため」に、そして「平和を」という念願で、
  この基地から(特攻隊員らが)随分飛び立って行きました。
  私が死ぬまでは私の戦争は終わりません!
  もう少し生かさせていただいて、私の心を後世に伝えていきたい。
  そういう念願で一杯であります。・・・


 ・92歳の元特攻隊員が祭壇の長い階段を懸命に上っていく。
  苦楽を共にした仲間の名が刻まれた碑。*敬礼* 「森丘哲四郎」*一礼*

   ◇森丘哲四郎さん(享年23)
    昭和20年4月29日 第57生隊4名


 ◆千玄室さんの戦争を僕は、伝えていきたい。

 

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┗■なぜ学生や市民が戦場へ?


 【学徒出陣】

www.youtube.com


  1943年10月21日(昭和18年)
  『学徒出陣壮行会』
   明治神宮外苑競技場で行われた学徒出陣の壮行会。
   集った大勢の学生達。その表情にはどんな思いが込められたいたのだろうか。

  『赤紙
   臨時召集状。 ※召集令状の複製品を紹介
   縦15cm/横26cmほど。B5サイズより一回り小さい紙に
   本人の名前と配属される日本軍の部隊名、そして行かなければならない日付が
   書かれていた。

   はんわしの「評論家気取り」: 津駅前で赤紙をもらった


 ◇竹田圭吾 ジャーナリスト Newsweek日本版 元編集長
  『赤紙』を届ける郵便配達人は「おめでとうございます」と言って渡すんですよね。
  受け取る側は「ありがとうございます」と言って『赤紙』を受け取るんですね。
  で、出征する時には「バンザイ」をして送られると。

  ですからそれぞれが心の中では「本当は戦争に行きたくないんだな」と思っていても
  戦争に行くことは「おめでたいことなんだ」という“空気”ができていた。
  そこがやっぱり“一番恐ろしいところ”であると思います。

 

◇感想‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

┣・メモ取りながら自分ももらい泣きしてしまった。戦争経験者の語りは心に響く。
  今回放映された特番は個々でも放送できるものだ。是非とも深夜、祭日の昼時
  でもいいので再放送をしてもらいたい。くっだらない番組を流し続けるよりは
  局側も視聴者にとっても良いことだと本気で思うから・・・

┗・私は反対側にある知覧町を訪れたことがあるが【特攻平和会館】や【武家屋敷】
  などは日本人であれば是非とも一度は拝見して欲しいと思う。10月に訪れた
  のだけれど、まだ30℃近くあり、暖かくて本当に驚いた。>鹿児島中央駅
  その日は晴天で何とも言えない美しい光景を目の当たりにし、帰り道バスの中で
  いろいろと考えさせられた。30代までには一度は訪れてもらいたい場所だ。

    ♪あの道ぃは~、どこへ行く道ぃ~

  自分の人生、どこへ行くべきなのか。今思えば、もっと真剣に考えておくべき
  だったかもしれません。>現在無職・四十過ぎ男。(^^ゞ